複数ジャンル短編 | ナノ
※嘔吐表現有
上記大丈夫な方はどうぞ











ごぽり、ごぽり、とまるで吐き気のようにお腹から何かがせり上がってくる感覚がする。それでも、何かを吐くという事はなく、ただ腹部から上がってくる得体の知れない嘔吐感に私は周りに気づかれないように気を付けつつ顔を歪めた。
乗っている電車の揺れのせいもあるだろうか、ぐらり、と電車が揺れるたびにぐっと嘔吐感が顔をのぞかせる。ただ一駅を我慢するだけなのに、それがとても辛いことに思えて仕方がない。
早く、早く駅について、と願いながらぎゅっと手すりを握る手に更に力を込めた時、待ちに待っていた駅員さんが駅名を言う声が聞こえた。
ひんやりとした風が心地よい。止めていた息を吐きだすように、ふぅ、と一息ついて駅の出入り口の階段を降りる。


「もうし、そこの貴方」


あと一段、それで階段が終わるという時、前から若い男性の声がした。


「よろしければ、今宵は当宿『叢雲屋』に泊まっていかれませんか?」
「え?」


顔を上げると、そこには明かりの灯る道行灯をもった一人の着物姿の少年がいた。その彼の後ろには沢山の提灯で柔らかな光に包まれる日本家屋。


「いかがです?」
「え、いや…私、お金もあまりないし…」


むしろ、何時からこんなところにこんな宿ができたんだろう。確か朝の出勤時にはこんな建物はなかったはずだ。
ぽかんと口を開けて少年と建物を交互に見る私を見て、彼はやんわりと瞳を細めて言う。


「お金なんていただきませんよ。それに、随分と具合が悪そうだ。少し休んで行かれるだけでもどうですか?」


確かに彼の言う通り、電車内では我慢できていた吐き気が、今や少しでも歩けばそのまま倒れてしまいそうなほどに酷くなっている。彼の言葉が本当ならば、お金はかからないだろうし、誘い方が少し怪しいけれど今はそれを気にする余裕もない。
またせり上がってきた吐き気を抑えるように口元を手で押さえ、私は小さく首を縦に振った。




△ ▼ △





どこもかしこも手入れの行き届いた廊下をどれほど歩いたんだろう。ふわりふわりと揺れる黒い着物の背中についていった先には、立派な座敷が広がっていた。


「どうぞ、今宵はこちらでお休みください」
「い、いいんですか、こんな立派な部屋」
「えぇ、構いません。ごゆるりと」


柔らかな笑みを浮かべて彼は持っていてくれていた私の荷物を部屋に置き、静かに出ていった。
扉が閉じると同時に、がくりとその場に膝をつく。必死につないでいた我慢も流石に限界がきていた。何か袋でもないかとあたりを見回すと、まるで見計らったかのように近くにたらいが置いてある。
部屋を汚してしまうのは申し訳ないと思い、急いで手を伸ばしてたらいを引き寄せ、そこに顔を寄せた。


「う゛え……っ、お゛ええええっ」


びちゃびちゃという水音と一緒に私の口から吐き出されたそれは、真っ黒な色をしていた。まさか血?と思ったが鉄のようなにおいは一切しない。むしろ無臭で気持ちが悪い。


「げほっ……なに、これ…」


自分の中から出したモノだというのに、そのモノの正体が私にはわからなかった。たらいに納まるそれは真っ黒なその水面に、顔を歪めながら覗き込む私の顔を映し出している。


「それは『毒』です」


不意に後ろからかけられた声に振り向くと、いつ入ってきたのか先ほど出ていった彼が立っていた。


「毒…?」
「えぇ、貴方の体内に溜まっていた『毒』」


微かな足音で近づいてきた彼は、私の前で座ると、まるで光を拒むような黒さを秘めた瞳で私を見つめた。すっと伸ばされた人差し指が、ゆるりと私の喉元から腹へと線をなぞる様に動かされる。


「人の世界に溢れる、恨み、嫉み、不安、様々な負の感情。それを人は常に体内に溜めている。普通ならば言の葉として外に出すことで適度に発散されるのですが、稀にそれができない人間がいる」


他人を気遣い、他人を傷つけまいとするあまり、自らの体内に毒をため込み続け、いつしかそれをただの『毒』ではなく自分の体すらも蝕む『猛毒』へ変えてしまう人間。


「その黒い液体はミョウジ様が体内に溜めこんでいた『毒』。他人に抱いている負の感情の塊です」
「私の、溜めていた毒…」
「えぇ」


そっと綺麗なハンカチが目の前に差し出される、それを受け取って口元を拭く。そこにもべったりと黒い液体が付いていて、確かにたらいに溜まっている液体は私が吐き出したものだと改めて自覚した。
ゆっくりと彼のように体制を正して座りなおすと、彼はたらいを片手で引き寄せ「耳をすましてみてください」と静かに言った。
彼に促されるままに黒い液体へと少しだけ耳を傾ける。


――『嫌い』
――『死ね』
――『消えてしまえ』
――『どうして私じゃなくてお前なんだ』


「ひっ」


聞こえてきたのは紛れもない私自身の声だった。けれど、それはとても怒りに満ちた低い声。まるで私と声色が一緒の人間が複数人いて、一斉に話しているように聞こえてきた。


「わかったでしょう?これはミョウジ様がいつも胸の底に抱いていた負の感情。他人に対しては決して見せない貴方の本当の気持ち」


ぼそぼそと声が聞こえてくる液体の入ったたらいの縁を撫で、彼はどこか楽しそうに言う。


「言うならば、貴方の『本音(ひみつ)』です」


くすくすと心の底から楽し気に彼は笑う。それに合わせるようにたらいの中からも楽し気な笑い声が聞こえてきた。
私がずっと体の奥に溜めてきた『毒』という名の『本音(ひみつ)』。こんなものが私の体内に溜まり続けていたのか。
それを自覚するととても恐ろしく、私は彼を化物でも見るような目で見ていることだろう。けれど、ゆっくりと、ゆっくりと、彼の言葉一つ一つを反復して理解していけば、自然とその恐怖は薄れていった。
別に目の前の彼は何もしていないのだから。ただ、私が吐き出したモノの正体を教えてくれただけ。
あぁ、そうか、とそこまで思考して落ち着くと、笑っていた彼は不思議そうに私を見た。


「怖くないのですか?」


怖くない、そう言えばきっと嘘になる。けれど、怖いと思う事もできなかった。


「少し、怖くはありますが、そこまででは…結局、それは私のモノで、私の一部ですから」


自分で自分を怖がるなど、おかしな話だ。
私の返事を聞いた彼は、一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐにまた柔らかな笑みを浮かべた。


「ミョウジ様のような方はとても珍しい。普通の方は此処で飛び出していかれる方がほとんどなんですよ」


己の暗い部分を直視させられて、恐怖におびえ、嫌悪の感情を抱かない人間がいるわけがない。大抵の人は顔を引きつらせて去っていくのだと彼は言った。


「少し変わっているとは、よく言われますよ」


はは、と小さく苦笑いを零せば、彼も袖で口元を隠して笑い声を零した。


「ええ、とても変わっています。けれど、とても良い」


ミョウジ様、と名を呼ばれ、返事をすれば、彼はたらいへと視線を向けて言った。


「貴方の『本音(ひみつ)』、私がいただいてもよろしいですか?」


どうやらこの宿は秘密を提供することによって、泊まれる宿らしい。なんとも不思議なお代だけれど、貴方のですよ、とたらいを差し出されても困るので私は肯定の返事を返した。
私の返事に満足したように笑った彼が手を叩けば、襖が開いて口元を包帯で隠した眼鏡の青年が現れる。


「蜘蛛、これを持っていっておくれ」
「わかった」


青年がたらいをもって去ると、少年はまた私へと向きなおった。


「お代である貴方の『本音(ひみつ)』は確かにいただきました。今日は疲れたでしょうから、休まれてください」


置いていた道行灯を持ち、彼は静かに立ち上がる。お布団はあちらに、という言葉と共に示された方向を見ればいつの間に用意されたのか一式の布団とその上には寝巻の着物があった。柔らかな羽毛布団で、きっとさぞかし寝心地が良いんだろうと見ただけでも分かる。
部屋を出ていこうとする彼に「あの」と声をかけると、幼さを残した顔が振り返った。


「貴方のお名前は、なんて言うんですか?」
「私に名前はありません。けれど、周りには…大将、と呼ばれています」
「大将…なら、私もそう呼んでもいいですか?」


流石に出すぎた申し出だったろうかと言ってから少し後悔した。けれど目の前の彼は、否、大将は、嬉し気に瞳を細めていた。


「えぇ、構いません」
「ありがとうございます、大将」
「いいえ。さぁ、ミョウジ様、もう夜も遅い、お休みになってください」


夜更かしは美容の敵です、なんて口元に人差し指を当てて言う大将がとてもお茶目で、ついつい私は笑い声を零してしまった。そんな私を見て、大将はどこか安心した表情を浮かべて静かに襖を閉めていった。
大将の去っていく足音が聞こえなくなった頃、ずっと着たままだった上着を脱ぎ寝巻へと着替えた。お風呂も入ろうかとも思ったけれど、もうそんな気力すら残っていなくて、用意された布団へと体を預ける。
見た通りその布団はとてもふかふかで、私の意識はゆっくりと夢の世界へと引き込まれていく。
あと少しで意識を夢へと手放す直前、あぁ、こんなにも心地よい眠りは久しぶりかもしれない、と考えた。




毒を吐く女
190122 執筆


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