【さよなら。】
ST☆RISHのライブから数週間が経った。
あれから真斗とは本当に会うこともなく、ただ毎日が過ぎていく。それでも時々、思い出してしまうけれど…夜一人で泣くことはなくなった。
仕事も楽しいし順調だ。毎日が充実している。
ただ私は数ヶ月、夢のようなひとときを過ごしていただけ。そう、あれは夢だったんだ……そんな風に自分に必死に言い聞かせて。
情けないと思うけれど、今はそれが精一杯だったんだ。
「(うん、大丈夫。前を向いていける)」
ひとつ深呼吸をして、背筋をぴんと伸ばした。
出張も終えて、今日はあと家に帰るだけ。…そうだ、せっかくだからデパ地下でも寄って美味しいデザートを買って帰ろう。
バッグを持ち直して、顔を上げて歩みを進める。街の中は賑やかにざわめいていて、人通りも多い。いつも通りの街の風景だ。
人の流れに沿って、青信号に変わった横断歩道を渡った。軽い足取りでデパートを目指す道中…
前から歩いてくる人物に気付いた、気付いてしまった。咄嗟に足を止めたはいいけれど、心臓は激しく音を鳴らす。
正面から歩いてきたのは、
つい先程まで考えていた人……そのものだった。
「ま、さと…」
「…七瀬」
私に気付いた真斗もまた、驚いた顔をしていた。立ち止まった私と真斗……ううん、真斗は一人じゃなかった。
彼の隣には、私の知らない、可愛い女の子。
その子が真斗の腕に自分の腕を絡めているのを見てしまって、ズキンと胸が痛んだ。
「あ、えっと、その…久しぶり、だね。元気だった?」
せっかく吹っ切れたと思ったタイミングで、どうして会ってしまうの?胸がざわつく中、必死に笑顔を作ってそう尋ねるのがやっとだ。真斗に密着するその女の子の顔も、上手く見ることが出来ない。
「あぁ……櫻井さんも」
『櫻井さん』
そう呼んだ真斗の声が、私の耳を冷たく掠めた。仕方ない、仕方ないよ。だって私達はもうとっくに恋人じゃない。
分かっている、頭では理解しているのに…気持ちが追い付かない。
「真斗さん、どちら様ですか?」
真斗の傍から離れない彼女が、澄んだ声でそう尋ねた。随分と丁寧な言葉い、整った身なり。どこかの立派なご令嬢かと勝手ながらに思った。
彼女の問いに、真斗は私から視線を逸らして
「あぁ…仕事関係の知り合いだ」
そう答えた。
「(知り合い…)」
知り合い…か。
もう、友人とすら答えてくれない。完全に拒絶をされているのが分かって、それが真斗の答えなんだって
そう、改めて思い知らされた。
目の前が真っ暗になる。上手く呼吸が出来ない。両足も震えていて、今、辛うじて立っている状態だ。
「そうなんですね」
良い子そうでとっても可愛い子。若くて肌ツヤも良くて…真斗と同い年くらいかな?真斗とよくお似合いだ。
「あぁ、すまない電話が」
「大丈夫ですか?」
「ここで少し待っていてくれ、すぐ戻る」
スマホに耳を当てながら、真斗が通りから離れていく。その姿を視線で見送った彼女の大きな瞳が、今度は私を捉えた。そして一瞬にして、目の前の彼女の雰囲気が変わる。
氷のように冷たくなった空気が私の肌を突き刺した。
「あなたがそうなんですね、元カノさん」
「え…?」
「真斗さんの反応を見てすぐ分かりました」
上品そうに口に手を当てて笑う彼女はとても可愛らしいけど、目が笑ってなくて。完全に敵視されていることがすぐに分かった。
それが怖くて仕方なくて、今すぐにでも走って逃げ出したい衝動に駆られる。
ダメだ…どうしよう、怖い。けど怖くて足が動かない。
「えっと、その…」
「私、真斗さんとお見合いしたんです。今日はもう三回目のデートで」
「お見、合い……?」
「そう、だから私はもう彼の婚約者なの」
【婚約者】という重すぎる言葉が私に追い討ちをかける。当たり前だけれどそんなことは初耳。
私とだって、そんな将来の話をしたことは一度もなかった…のに…。
そっか。そうなんだ。
真斗、結婚するんだ……。
「優しくて清らかで誠実で、素敵な方ですよね」
知ってる、そんなの…私だって知ってるよ。
「このまま私は真斗さんと一緒になって幸せな家庭を築いていくの」
「…っ」
「邪魔…しないでもらえますか」
「さっさと消えてよ」
冷たく言い放つその婚約者の彼女に、
「…ご心配をおかけし、申し訳ございません」
私は言葉を探して、震える声を必死に発した。
「私はもう二度と、聖川さんと会うことはありません」
「……」
「だからどうか、お二人で末永くお幸せに」
吹っ切れてなんていなかった。前を向いて歩いていけるなんて嘘だ。だって今、こんなにも私は辛くて苦しくて。
本当は二人の幸せなんて願いたくない。真斗が私以外の誰かと一緒になるなんて嫌。だけど、
それを止める権利は、私には一切ない。
「聖川さんにも、そうお伝えください」
丁寧に頭を下げて言う私に、彼女は何も言わなかった。
大丈夫、これが正解。そうだ。
そうだよね?真斗。
「それでは失礼しますね」
姿勢を正して、ゆっくりと踵を返し反対方向を向いた。とにかくその場から離れたくて、歩いていた足を徐々に速めていく。
途中、涙を我慢出来なくなった。口元を手の平で抑えてただ前も見ずに全力で走った。
「いたっ…!」
「すみません!大丈夫で…」
すると、一番最初の曲がり角で誰かと身体がぶつかる感覚がした。
まずい、知らない人にこんな酷い顔を見られたら、絶対変に思われる。
「…七瀬」
だけど、目の前にいたのは……今、一番会いたくなかった人。
「真斗…」
「あぁ、その…」
気まずそうにスマホを握って目を逸らした真斗。通話が終わって、あの彼女の所に戻る途中だって事は、簡単に想像が出来た。
「ごっ…ごめんね!デートの邪魔しちゃって!」
「いや…」
「もう会わないはずだったのに、偶然会っちゃうものだね」
目を擦って、涙を適当に誤魔化した。必死に平然を取り繕って話すけど、目は合わせられない。だって、目が合ったら大粒の涙を流してしまいそうだから。
「じゃあ、私行くね」
下を向きながら、肩に掛けた鞄の紐をギュッと握り締める。コンクリートに立つ自分の足は、震えは治まってちゃんと踏ん張っていた。
「仕事、大変だと思うけど…あんまり無茶しないでね」
「……あぁ」
「身体、大事にしてね」
泣くな泣くな泣くな。
自分にそう必死に言い聞かせながら、強く手に力を入れた。
「……私」
あなたを好きになってよかった。
真斗が私と出会ったことを後悔していたとしても、私は真斗と出会えて嬉しかったって…そう思ってるんだよ。
そう伝えようとした言葉を飲み込んだ。これ以上、真斗を困らせるようなことは言いたくなかった。
それに、そう口にしたら。きっともう離れられなくなるから。
「…ばいばい」
代わりに絞り出した別れの言葉。
自分が今出来る、精一杯の笑顔でそう言った。
涙で完全に視界がぼやけてしまって、真斗の表情はよく見えない。
目を細めたと同時に、堪えきれなかった涙が一筋だけ頬を伝った。
真斗の顔が、苦しそう歪んだ気がした。
だけど真斗は何も言わない。そんな彼の横を通り過ぎて、私は進行方向に向かって走り出した。
もう、振り向かない。
振り向けないよ。
これで、本当に終わってしまったんだ。