『―ねぇせれねちゃん。…手、出してくれる?』

後ろ手に何かを隠す彼は、どこか含みを持たせるように微笑んで。
不思議に思いながら両手を差し出すと、慎ちゃんはその上に小さな袋を載せた。

『……?慎ちゃん、これなあに?』

赤い蝶々結びを解き、私は片手に袋を傾ける。
すると、ぱらぱらと薄茶色の小さな粒が落ちてきた。

『胡蝶菫(こちょうすみれ)っていう花の種なんだ。阿蘭陀の人から貰ったものなんだけど、せれねちゃん知ってる?』
『ううん…聞いたことない』
『何でも、蝶が舞う姿に似てるんだって。せれねちゃん、花を植えたいって言ってただろ』

伝統的な日本家屋を取り囲むお庭。
二人で暮らすために一時的に住むことになった家とはいえ、草木が何もないその庭は少し物寂しげに見えたから―。

『慎ちゃん…覚えててくれたの?ありがとう』

『へへっ。その花、初春に咲くらしいんだ。だから今から植えれば、せれねちゃんの誕生日頃に咲くかもしれない』

私の手のひらをそっと閉じた慎ちゃんは、自分の手を重ねるとこつんと頭を合わせた。

『寂しい思いさせちゃうかもしれないけど…咲いたらせれねちゃんと見たい』
『うん、私も…。約束ね―』


―昨日のことのように頭に浮かぶ、数ヶ月前の出来事。
その夢の終わりにゆっくりと瞼を上げていくと、無防備な寝顔が視界に映る。
こうしてみると、まるで少年のようなのに―。
規則的な寝息を立てる彼の前髪を手で掬いながら、私は密かに笑みを溢した。

(慎太さん…今も覚えてるかな…?)

忙しい彼に覚えていて欲しいというのは無理な話なのかもしれないけれど。
私にとっては、忘れることの方が難しいくらい大切な思い出で―。
例え約束が叶わなくても、花だけはちゃんと咲かせたいと思った。

(そういえば…昨日の夜は霜が酷かったけど、大丈夫かな…)

毎日欠かさずお世話をして、やっと蕾をつけてくれた胡蝶菫。
隣で眠る彼を起こさないように布団から抜け出た私は、静かに廊下への襖を開けた。

「…今日も擦れ違いとは、全くついてないな」
「ごめんなさい、せっかく寒い中来て下さったのに…」

「君のせいじゃないよ」と私の頭を撫で、武市さんは優しい笑みを浮かべる。

入れ違いになってしまった慎太さんは、まだ昨日のことを怒っているのか、行き先を告げることなくそのまま出掛けてしまい、どこに行ったのか見当がつかなかった。

「ところで、紅を塗るのは止めてしまったのかい?よく似合っていたのに」
「あ…武市さん、そのことなんですが……」
「ん?何だい」
「私、本当に口紅似合ってましたか?」
「は?」

きょとんとする顔を見返しながら、私は昨日の出来事をぽつぽつと口にした。

「慎太さんに言われたんです……。『私に口紅は似合わない』って…」
「中岡がそんなことを?……そう」

一瞬考え込んだ表情を見せた武市さんは、すぐにくすっと笑い声を溢した。
「大方、君のことだから僕に褒められたとでも言ったんだろう?」
「え…。ど、どうして分かったんですか…?」
「それじゃ中岡は、面白くないだろうな」

納得するようにお饅頭を口に運び終えると、彼は「さてと」と呟く。
けれど、一方の私には話が全く見えてこない。

「せれねさんは、男心をもっと勉強しないとね」
「は、はあ……」
「ああ、でも」

私の傍に腰を下ろした武市さんは、そっと耳に唇を寄せる。そして一際小さな声で、妖艶
な声色を響かせた。

「中岡が嫌になったら、僕のところに来ればいい」

「……!」
「またね、せれねさん」

何事もないように腰を上げ、武市さんはぱたんと襖を閉める。
その後、お見送りしそびれてしまったことに私が気が付いたのは、彼が家を出てから一刻を過ぎた頃だった。

(慎太さん…今日も遅いのかな…)

武市さんの言葉を何度考えてもみても、どうしたら仲直り出来るのか分からない。
けれど、伝えたい想いはひとつだけで。
そんな歯痒い想いに駆られながら庭に出ると、白い月明かりにぼんやりと紫色の花びらが浮かび上がった。


「あ……」

色取り取りに咲き誇るそれは、子どもの頃から馴染み深いお花で。
ちょんと指先で花びらに触れながら、私は思わず笑みを溢した。

「本当にこうして見ると…蝶が飛んでるみたい」
「…ああ、そうだね」


後ろから聞こえる声にどきりとして振り向こうとすると、そのまま背中を抱き締められる。首許に伝わる吐息と温もりに酔いしれながら、私はそっと彼に身を預けた。

「約束、やっと叶ったね」
「覚えてて…くれたんだ」
「俺がせれねとの約束を忘れるとでも?」

少しむっとした口調で答える慎太さんに顔を向けると、ふいに唇が冷たくなる。
紅に染まった彼の指先。それは左から右へと動き、そっと輪郭をなぞってゆく。

「…昨日はごめん」
「え…?」
「本当は、綺麗だって言いたかったんだ。でも、」

そのまま両手で私の頬を包み込むと、慎太さんは目線を逸らしてしまう。

「せれねは俺のものなのに…。そんな姿を他の男に見られたのが嫌だった」
「慎太さん……」
「だから……ごめん」

少し余裕を無くしたその気持ちが愛しくて。
けれど、いつも貴方にやられっぱなしじゃ悔しいから―。たまには私だって嘘を吐いても
、罰は当たらないかもしれない。

「…駄目。許してあげない」
「…え?」
「だから罰として」

「今夜は、私の言うこと聞いてくれる―?」


吐息にも似た囁きは、瞬く間に夜風に流されて。
頬を真っ赤にした彼の返事を代弁するかのように、胡蝶菫がざわめいた。

→御礼
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