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明日の診療分のカルテを出していてふと目についたその名前。随分と珍しい名字の患者だと思いつつ初診時に記入された問診票にざっと目を通した。主訴は「検診希望、クリーニング」とある。初来院日時は半年前ほど、カルテ自体は一度の検診のみで終わっているから歯痛や何かしらの不具合を感じての来院ではなかったらしい。

「あ、長船さん明日来るんだ」
「変わった名字ですよね」
「あー、最初何て読むか分からなかったかも。でも名字よりも顔がね、もうべらぼうにヤバい」
「どっちの意味ですかそれ」
「超絶イケメン」
「まじっすか」

先輩の力説曰く、ただ一度の来院だと言うのにそれだけ印象に残っていると言うのは相当だろうと感じられる。顔だけでなく、愛想も良く一部の患者さん特有の横柄さとは無縁の性格らしい。おまけに高身長。問診票の職業欄には【会社員】とだけ少し右肩上がりの字でそう記されていた。勤務場所は【サニックス株式会社】と、某有名企業の名。そういえばうちの病院の患者さんはこの会社の人が多い。確か徒歩圏内に本社が在ったはず。
そんな事を考えながら明日のアポを確認しつつカルテを棚から出していく。残り数人となったところで受付の電話が鳴り響いた。


「かしこまりました、それでは本日午後七時でお待ちしております」

淡々と必要事項に答えてくれる電話越しの声音は落ち着いた様子で好印象だ。急患の受付はいつも構えがちだけど、電話先の相手に慌てた様子はなく「もし今日、可能ならば」とあくまでも低姿勢な物言いも電話応対として話しやすい相手だと感じられた。主訴は虫歯かもしれない、とのこと。詳しくは中の人が問診するだろう。
急患入りましたー、と一声かけつつ診療室に掲示されているアポ表に急患の名前を記入する。【相州ヒロミツ・検診】この人の名字も珍しくて、二度ほど聞き返してしまったのに丁寧に漢字表記まで教えてくれたのはとても助かった。


「すみません、本日七時で予約した相州廣光です」
「こんばんは。それでは保険証をお預かりしますね、此方の問診票にご記入をお願いします」
うちの病院は午後八時で閉院だから、午後七時台の急患応対は少し気分が滅入る。先に問診票を記入してもらうからどうしたって診療時間が押す。基本的にひとり三十分で取っている時間が伸びると次の七時半、つまり最後の患者まで食い込むのが予想されることからも時間帯に関わらず初診の患者さんには少し早めに来てもらうことをお願いしていた。相州さんは七時十五分前に来院、正直それだけでも有り難くて終業間際の表情筋が引きつった顔が少し和らぐ。患者さんに対してどうかとも思うけど、それでも日々積もる感情があるのは事実なので相州さんのように対応しやすい患者さんを迎えられるのは素直に嬉しかった。

「お願いします」

一言添えながら差し出されたバインダーを回収してカルテの入力作業に移る。保険証は社保。黒の一号カルテを出して保険証のコピーを取った。レセコンに保険証情報を手元のそれと照らし合わせながら打ち込んでいく。保険者番号は06から始まるからつまり大企業、すごい。番号、記号と入力していって一項目ごとに誤入力が無いかを確認していった。ちら、と受付カウンター越しに盗み見た相州さんの見た目年齢は二十代後半くらい。生年月日を入力すれば二十九歳と表示された。意外、もっと若いかと思った。
レセコンに必要事項を打ち込んだら問診票を軽く確認する。持病、なし。アレルギー、なし。常備薬、なし。特別チェックを入れる箇所も見当たらず、レセコン上の患者番号を端の方に記載してから青色のファイルへ一号用紙と共に挟み込みながら見えた職業欄は【バーテンダー】とあった。保険証の事業所名称が有名企業だったから、その派生会社だとかそういった感じなんだろう。

「初診の方でーす」

ひと声かけて診療室にカルテを預けたら七時台の患者さんを出迎える。こんばんはー、顔なじみの人やそうでない人、愛想のいい人や、無愛想な人。色々な患者さんから診察券を受け取りつつ、そういえば相州さんの診察券を作らねばと思い出した。【相州廣光】物凄く漢字のバランスが難しくてボールペンの進みがきもち遅い。名前を記入し終えた診察券と共に保険証を纏めておくうちに相州さんが中の人に呼ばれて診療室へと入っていくのが見えた。


「イケメンだった」
「ですよね」
「物静かだけど愛想が悪いって感じじゃないですよね」
「それ」
「明日またアポ取りましたよー」
「やったね、明日もあの顔見れるんだ」

相州さんを見送ったあとの中の人、衛生士さん達との会話が盛り上がること盛り上がること。終業後の締め作業をしつつ会話の中身はつい先程来院した相州さんのこと。そう、彼もまたべらぼうにイケメンだった。日本人にしては褐色の肌と、涼しげな目元が印象深い。襟足から少し赤が目立つ焦げ茶の髪は軽く横に流されていた。声音は電話越しで聞く以上に穏やかで、特別声が小さいだとかそういったこともなく耳に響く心地良いタイプのそれだ。

「バーテンさんだって」
「あー、居そう。あんな感じの子」
「わかる」
「明日歯ブラシ指導ってありましたけど、治療自体は終わったんですか?」
「うん、終わった終わった。もともと軽いのが一本でCRで終わり。あとCOが一本合ったから要観察ってことでTBIしますかって聞いたんだけど、ちゃんと予約取っていったんだね」
「見た目硬派って感じですけど、真面目そうですよね」
「だね」


やばい。昨日に引き続きべらぼうにイケメンが来た。特別面食いではないけど、芸能人顔負けのイケメンが来たら話は別だと思う。差し出された診察券と共にこれまた美声が耳をつく。「長船光忠です、今日の七時半から予約しています」アポ表と診察券を確認して保険証の提示を求める。噂の長船さんだ、と顔が緩むのを隠しつつ受け取った保険証をレセコン上の情報と照らし合わせていった。

「お願いしまーす」

中から診療を終えた患者さんが戻ってくるのと、衛生士さんがその患者さんのカルテを受付に持ってきたのはほぼ同時。衛生士さんから受け取ったカルテと引き換えにたった今来院した長船さんのカルテを手渡す。

「おつかれさまです」

戻ってきた患者さんに定形文句を口にしつつ顔を上げれば今出てきた人は相州さんだった。彼は私の声掛けに僅かに会釈してから待合室に移った、と同時に未だ呼ばれること無く待合室の椅子に腰掛けている長船さんを見て歩みを止めてみせる。

「光忠」
「やあ廣光、おつかれさま」
「……あんた、今夜だったのか」
「うん、君とは時間差だけどね。治療はもう終わり?」
「ああ、次回は定期検診だ。…そこらで時間を潰しておく」
「オーケー、また連絡するね」

そう言って長船さんは相州さんの頭をひと撫で。軽く手を置いたに過ぎないだろうけど、僅かに身長差のある彼を下から見上げる相州さんはその手を払うと「光忠」と小さく語気を強めて長船さんの名を呼んだ。
思わず衛生士さんと顔を見合わせる。あの硬派なイケメンを、あっちのイケメンは「廣光」と名を呼び捨てた。おまけに頭を撫でた。勿論、相州さんも長船さんを下の名で呼んでいたけれど、二人の年齢差とその割に親密らしい雰囲気が不思議で短い会話の交わされるその様を衛生士さんと二人して眺めてしまった。


「長船さん、中へどうぞ」

衛生士さんに呼ばれて長船さんが診療室へ向かう。それを見送った相州さんを呼べば、「はい」と短い返事を返して彼は受付カウンターへと来てくれた。

「次回のご予約、どうされますか。三ヶ月後くらいで皆さんご予約されていきますが」
「……この日で」
「かしこまりました」

慣れきった会計処理を行いつつ、先程の会話を反復する。見た限り、特別予定を合わせて来院したわけではないらしい。それはそうだ、相州さんは昨日初診で今日たまたま連日で予約を取ったから。長船さんはおそらく前から定期検診の予約を入れていたんだろう。さっき確認した長船さんの年齢は三十四歳、相州さんとは五歳差。兄弟、の可能性は無いだろうしますます彼らの関係性が気になった。だって会社も職業も異なるイケメン同士が、あんな親しげな雰囲気を出すことはあるだろうか。

「あの」
「…っ、すみません。それでは此方お返ししますね、次回またお待ちしております」
「ありがとうございました」

手早く診察券に次回の予定を記入しつつ彼に手渡す。「お大事にどうぞ」常通りの見送りをしてまたも小さく頭を下げて帰っていった相州さんが完全に見えなくなったのを確認してから締め作業を始める。壁時計が示す時間は午後七時四十二分だ。


「いや、ほんと先輩の言うとおりのイケメンでしたね」
「でしょ。てかあの子と知り合いだったのかな、長船さん」
「……相州さんと結構仲良さそうでしたよね」
「だって頭撫でてたし、たぶんこの後合流してるだろうし」
「そんな会話してましたもんねさっき」

今夜も昨晩同様締め作業をしつつ先程の彼らを振り返る。物は試しと、彼らのカルテの住所欄を確認して二人して驚いたのはその直後だった。


「つっかれたー」

着替えを終えて、一人呟きながら戸締まりを済ませる。鍵をキーケースに仕舞って施錠の確認をしてから職場を出れば空には綺麗な満月が輝いていた。暫く夜空を眺めていれば不意に耳に届いた会話に思わずそちらを見れば暗がりながら僅かに分かるのは長身の男性が二人。

「僕も虫歯だったみたいやっぱり。今日で処置は終えたから次回は廣光と一緒で定期検診だけど」
「……あんたここ最近残業続きで忙しなかったからな」
「うーん、それでも歯磨きを怠ったつもりは無いんだけどなあ」
「ストレスや不摂生も虫歯の要因になると聞いた」
「あとは感染る、とも聞いたかな」
「……ああ」
「廣光も今まで虫歯なんて無かったのに、……あ」
「あんたのだろうな、おそらく」

長船さんが「あー」と声を発したおかげで私の声はかき消えたと願いたい。足早に二人の脇を駆け抜けて、それから先の会話で思い立ったそれに思わず顔が熱くなるのを感じた。年齢差のある二人、職業も違って、でも仲が良い。それから住まいが一緒で、加えて先の会話を総合して導き出た答えはそっと胸に仕舞っておく。ごちそうさまでした。小さく呟きつつ、三ヶ月後の彼ら二人の定期検診を楽しみに思う。イケメン万歳。


オワリ