- ナノ -
△△出版  編集担当者様

突然のお手紙を失礼致します。
御社から先日に出版された単行本の○○について、
著者の長船光忠に関してお聞きしたいことがあり連絡させていただきました。


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その物語を耳にしたきっかけは遠い親戚の男からの一言だった。

「きみはこの本を知っているかい」

おそらく、その小説の一節らしいフレーズを諳そらんじて口にするその表情はいたずらを企む子どものように楽しげに綻んでいたのが随分と印象に残っている。問い掛けられた言葉そのものには首を振り、けれども耳に馴染むその一節は相手が口を噤んでもなお心地良い感触を残して耳に留まっていた。
自分はその物語を知っているのだろうか、己が知り得ない事を存外によく知るその男に訊いてみれば相手はその質問に対して、浮かべていた笑みを殊更深くするだけで望む答えを寄越すことはなかった。

「きみは昔から好きだったからなぁ」

意味深な言葉を残して相手は此方に背を向けると親族同士の宴会へと戻っていく。
大人たちが好き勝手に宴会をするなか、未成年である自分の居場所はこの場には無いものだと感じられる。詰め襟タイプの学生服は、法事ということもあって仕舞い込んでいたクローゼットから出したものだった。入学から数えて三年が過ぎた今、当時と比べ随分と伸びた身長に丈が追いついていないこともあり、普段はそれを着ることはなくもっぱらカーディガンで過ごしていた。とは言え、夏休みという時期を考えれば制服自体を着る機会が少なく、それに加え季節を踏まえると次に袖を通すのは卒業式の練習辺りだろうかとひとりぼんやりと考えた。
平屋建ての今はあまり見かけなくなった日本家屋は件の親戚の持ち物らしい。自分はこういった特別な時しかこの家に訪れる機会は無いものの、不思議と居心地の良さを感じられるこの家が好きだった。縁側に腰掛けて無理に浮かした足を上下に揺らせば、靴下を履いた足元にも夏特有の湿った空気がまとわり付いてくる。桶でもあれば足を浸せるのに。そう考えて辺りを見渡せば向かいの納屋の隅にふせられて置いてあるのが目に入る。放ったスニーカーはそのままに、靴下を脱いだ裸足でその桶を取りに行く。桶の直ぐ近くに放置されていたホースの先には蛇口が見えた。足の裏が汚れることも構わずに桶に水を溜めてから再度縁側へと腰を預けた。

「おっ、きみにしては珍しいことをしているらしい」
「……今日は暑いから」

不意にかけられた声はつい先程も会話を交わしたばかりの相手だった。悪巧みを見つかった気恥ずかしさに些かぶっきらぼうに返せば、にんまりと口の端を上げて笑う相手は此方の了承を得ることもなく靴下を脱ぐ。並んだ足は四本になった。

「さっきの質問についてだが、きみはあの一節を知っているものと思うがなぁ」

それから暫く、足を浸けていた水がぬるく感じる程度には互いに他愛もない会話をし尽くした頃だった。ふとかけられた言葉の意図が分からずに首を傾ければ、相手は此方へと身体を向けて手を伸ばしてきた。髪を撫でられながら相手の言葉を待てば顎先に手をあてて考えこむ仕草に此方もそれ以上の言葉を紡ぐことはしない。数分間の沈黙の後、再度口を開いた相手の片手は髪から離れていき、そのまま肩へと落ち着いたのが分かる。数回ぽんぽんと叩かれた後に元の位置へ収まった片手を目で追いつつも相手の言葉へ耳を傾けた。

「気になるんだったら、本屋でも図書館でも行ってみればいいさ。学生ってのは時間だけは大量にあるものだからな。きみの求める答えは必ず見つかるだろう。回答が分かった折には是非とも聞かせて貰いたいものだ」

常から飄々としているその相手は好き勝手に疑問だけを此方に残して縁側を後にした。いつの間にか傍らに置かれていたタオルを拝借して濡れた足元を拭いてから広間へと戻れば、既に出来上がった大人達は皆揃って顔を赤くして笑っているばかりだった。



  ある男に恋をした。その相手は自分には遠い存在で、手を伸ばした先にあるのはいつだって掴みきれない空気だけだった。
  ある日その男が自分に話しかけてくる。名乗った記憶もない己の名を口にして相手は花が咲いたように朗らかに笑って見せた。
  遠目で眺めるにも眩しいその笑みを間近で見れば、顔には熱が上がり口を開いたものの意味のある言葉を紡ぐことは難しかった。
  それから幾年か経ち、自分の隣に居る男は以前と変わらずに眩しい笑みを浮かべている。その笑みを、自分は好いていた。
  遠い存在だと思っていた相手は、己と出会った頃を振り返っては気恥ずかしげに頬をかいてみせる。一目惚れだったのだと、
  そう告げる相手の言葉は己が妄想した世迷い事に過ぎないのだろう。嘘だろう、と口にしようとした口元に相手の指が伸びる。
  相手から告げられる言葉が耳に届く寸前、決まっていつも目が覚めるのだった。



どうしたこともない、片思いを軸に展開される物語だ。別段珍しくもなんともないその内容に強く惹かれる理由が分からなかった。どこかで耳にしたことのあるような、あるいは読んだことのあるような何の変哲もない物語だと感じたことも嘘ではない。書店で平積みにされていたその単行本は短編集で、一つのテーマに関連した短い物語が五編収められている。テーマは「恋をした日」だ。
著者の名を見て驚いた。あの日、まるでその名を己が目にした際の情景を予期するかのように楽しげに笑っていた、例の親戚の顔がちらつく。驚きを好む男らしいと、吐いた息は溜息の類ではない。


自宅に戻ってから、ひとつメールを打った。同い年の従兄弟に宛ててだ。簡潔にまとめたその文を送ってから、書店で購入した本を取り出す。著者近影を確認しようと表紙を開けば、そこに写真が載せられていることは無く著者の略歴のみが記載されていた。
あとがきはどうだろう、そう考えて裏表紙を捲る。奥付を越えて出てきたあとがきの一文に視線が吸い寄せられた。

『今はもう会えない好きな相手に宛てて綴ったものです。君の紡ぐ物語が好きだと告げてくれた相手でした。』

知りもしない、その相手に身勝手にも嫉妬の念が湧いた。一度閉じた頁を再度開いて、その一文を指先で撫でながら己の感情の変化に首を捻る。今まで気にもしなかった作家に対して、そしてその作家がおそらく作家を志すに至る理由となった相手に対して。見ず知らずのその人間に向ける己の感情が理解できなかった。

【俺が口を挟む領域ではない。お前が自力で考えるべきだ、鶴丸もそう考えてお前に明確な答えを渡さなかったんだろう。だが、俺は以前からその作家を知っている。】

届いたそのメールに目を通してから、スマホを片手にネット検索をする。
結果として、その作家の顔写真を見つけることは出来なかった。代わりとばかりに、来月末にサイン会が行われることを知る。悲運にも参加申し込みが前日で締め切られていることもあり、そのページは閉じるほかなかったことが残念だった。
その著者が気にかかる理由は幾つかあるものの、他の作品も読んでみようと図書館に向かったのは翌日の事だ。

幾つか目を通した物語のどれもが心に響いた。恋愛をテーマにした作品が多く、ありふれた日常を主軸にした内容が殆どだった。日常のなかでふと自覚する相手への気持ち、相手の話す口振りや仕草、相手が自分を見つめる瞳のあたたかさやわらかさ。そんな一見すれば恋に恋する乙女か、とでも言える内容が柔らかな言葉で綴られているものばかり。特別目を引くような文才があるわけでも、オリジナリティがあるわけでもない。けれども、どうしてか惹かれるその物語を綴る作者の素性が知りたくて堪らなくなった。
ダメ元で送った問い合わせメールの返事に添えられていた添付ファイルは、既に締め切られたはずのサイン会の参加券だった。参加者の名が記載されたそれをスクショして、受付で身分証明とともに見せれば良いとのことらしい。肝心の返信内容については、【ご自分の目で確かめてはどうでしょうか】といった旨だったこともあって、ますます疑問が深まるばかりだった。


サイン会当日の朝は常の朝よりも早くに目が覚めた。我ながら緊張をしているらしいと、己の心境を振り返りながら受けた夏期講習の中身は頭をすり抜けていくばかりだ。会場とされる書店へ向かう道中に読んでいたのは件の「長船光忠」の作品だった。今日は気温が著しく下がるから、と出掛けに親から手渡された詰め襟は待ち時間の間エアコンに晒される身体には有り難かった。


「次の方、どうぞ」

聞いたことのある声だ。手元の文庫本から顔を上げて、見えた先にいたその人間に思わず目を瞠った。編集担当、という簡潔かつそれ以上の情報を明かすことのない名札を首から下げたその相手に促される形でパーテーションに区切られたスペースに足を向ける。「驚いたか?」と、緩く背を叩かれての言葉に口を開くよりも早くに、また別の声がかけられた。スペースの向こう、設置されたテーブルの向かいに置かれたパイプ椅子に腰をかけるその相手の装いはスーツ姿で、此方に向けられたその声は低い。深く柔らかさを伴って己の名を呼ぶ相手の姿を脳が処理すると同時に蘇った記憶に目を見開いて、眼前の相手に歩み寄る。


「あの頃とはまるで装いが逆だな。あんたのそういった面を見るのは、久しい。だがそれ以上に会えて嬉しい」



「いやー、悪かった!何せ、光坊だけが記憶を持っていなかったからなぁ」
「貴様も意地が悪い、例の法事の際にこいつの書を諳んじたのも全て計画的だったんだろう」
「ははっ、伽羅坊もいい加減に痺れを切らしていたからなぁ。なに、爺の余計なお節介とは言わないでもらえると嬉しいんだが?」
「長谷部君も、鶴さんも全部知ってて黙っていたのかい?」
「まぁ、きみの記憶を無理に思い出させるのはどうかと思ったのも確かだぜ。だが、俺がきみに聞かせた一節に反応を示したのはきみだからなぁ、光忠」
「……覚えがある、って不思議な感覚だったんだ」
「そりゃあ、きみは当時から伽羅坊の紡ぐ話を好いていたからなぁ」
「よく短刀達に聞かせてやっていたからな、こいつは」
「……奴らに強請られたからに過ぎない」
「でも、僕は伽羅ちゃんの話す物語を聞くの大好きだったよ」
「……知ってる」

鶴さんの家の縁側でスイカを齧りながら交わす答え合わせには、懐かしさも相まってどうにも擽ったさの方が増した。大倶利伽羅もとい、相州廣光となった彼もそれは同じようで口数は少ない。鶴さんと長谷部君が僕の鈍さについて話しているその横で、手招いて引き寄せた大倶利伽羅の耳元へと顔を寄せる。

「どうして僕の名前がペンネームなんだい?」
「……あとがきの通りだ」
「あとがき、って……君の一番新しい作品のかな」
「あぁ」
「……」
「……あんたの名を勝手に使用したことは謝る。すまなかった」
「あはは、僕もまさか“長船”なんて名字が自分以外にいるなんて思わなかったから。流石に“燭台切光忠”という名で生を受けることはなかったからね」
「……国永に予め訊いておくべきだった」
「ふふ、僕は嬉しかったけどなぁ。僕と同じ名の“長船光忠サン”がこんなに魅力的な物語を書いてくれるなんて、って。まぁ実際は君だったわけだから、それ以上に幸せで堪らないんだけどね」

こそりと交わす内緒話は、当時の関係を繰り返すかのようだった。未だ確認しきれていない、もうひとつの事案についていつ口にすべきかを考えていれば手首を伝ってスイカの果汁が垂れてきていた。タオル、と視線を走らせるより先に引かれた手は、筋肉の線に沿って大倶利伽羅の舌が這わされる。

「伽羅坊、そんなナリをしてても光坊は未成年だからな。成人を超えているきみが今手を出すとしょっぴかれちまうぞ」
「ふん、出される側なら問題無いだろう」

大倶利伽羅の言葉に鶴さんは囃し立てるように口笛を吹いた。長谷部君は付き合ってられない、とばかりに肩を竦めて腰を上げる。僕は、といえば大倶利伽羅に抱きつくまであと数秒。たった今爆弾発言をしてくれた当の本人は、自分の口にした言葉の意味を理解したと同時に耳元まで顔を朱に染めてくれた。


オワリ