- ナノ -
雨が降ってきた。不意に耳元をかすめた声に顔を上げれば光忠は東屋の軒先から顔を覗かせて、それから遠い空を眺めているところだった。
雨か。返した言葉に返答はなかったものの、ゆるりと此方を振り返った光忠が口元へと人差し指を押し当て、それから「ないしょ」と短い単語を口にした。呟きと同時に、ちら、と視線を走らせたのが伺えた。視線の向かう先は俺の頭を越えたその先だった。
ないしょ。呟かれた言葉を小さく口で唱えれば光忠は再度軒先へと身体をおさめ、それから俺の髪へと手を伸ばす。その手から逃れることはせず、身体を身じろがせることもせず。伸ばされた指先が行き着いた場所は赤みを帯びた毛先の一房。
もうすこしだけ、ね。小首を傾げて、なおも片方の手指は口元にある。まるで秘事のように緩やかに呟かれたその言葉に浅く頷きを返せば此方へと触れた指先が毛束の先、そこへと絡められる感触が届く。緩い力で引かれるままに距離を詰めれば上目に見上げる光忠は瞳を細めて笑んでいた。
ありがとう。何に向けての礼なのかは問わなかった。五文字の言葉が届くと同時に背中へと腕が回され、一瞬だけ抱きしめられる。ふわりと香る光忠自身のかおりと、不意の、雨の匂い。雨音が耳を掠めたような、掠めていないような。願望故の幻聴にさえ身を預けるかのように真意を覗くことはしなかった。
戻ろうか。耳元で囁かれると同時に離れた身体と、離れない手の先。いつの間にか絡まった指先を引かれるままに東屋を出れば、見上げた先の空は真っ青な晴天だった。


オワリ