- ナノ -

ここちよさの理由

よく喋る客だ、それが男に対する第一印象だった。


からん、と来客を知らせるドアベルが鳴る。店の広さはこじんまりとしているものでその音が響き渡れば自然と店内いっぱいに音が広がり、皆が口々に来客を歓迎する言葉を口にした。ドアをくぐった客に対して身体を向けられるのは担当している客をを抱えていない者で、今まさに施術をしている者は口にその言葉をのせるだけとなる。たいてい何処の美容室でも見られるその光景は俺が働くそこでも同じものだった。

「よっ、待ってたぜ燭台切」
「急にお願いしてしまって悪かったね。……少し早かったかな、大丈夫?」
「見ての通り俺は今暇を持て余している、君の前に入れられていた予約がキャンセルになったものでな。それに指名を頂けるのは嬉しい限り、ってな」
「あぁ、なるほど。確かにこの雨じゃ仕方ないだろうね……っと、鶴丸さんが今日お店に出ていてくれて助かったよ」
「相変わらず忙しくしているようだな君は」
「有り難い限りなんだけどね、流石に髪も整える隙がないのは格好悪いから今日来ることが出来て良かったよ」

男を担当する国永と、その客である男は随分とフラットな会話を続けていた。床を磨くモップを片手に、男が“この雨”と称したそれに倣うように窓の外へと視線を投げれば水滴が止まること無くガラスの表面を流れ落ちていく。雨粒が窓を叩く音がひどく大きく聞こえた。

「君は運がいいな、ちょうど今朝良いシャンプーが手に入ってな。君が一等最初の被験者だ」
「ふふ、被験者って言い方が気になりはするけれどそれは随分と魅力的だなぁ。鶴丸さんのおすすめは外れた事がないからね、前に教えてもらったコンディショナーも僕のお気に入りの一つだよ」
「ははっ、そりゃあ有り難いこった。さて、生憎と俺は店じまいの支度をしなければいけない。シャンプーとコンディショナーに関しては別の者が担当するが構わないかい?」
「無理を言ってこの時間に予約させてもらったのは此方だからね、構わないさ」
「ふ、君ならそう言ってくれると思っていた。それじゃあ暫しバトンタッチだ……倶利坊、後は任せたぜ」

国永に肩を叩かれる形で促される。掃き掃除をしたモップを棚のフックに立て掛け、それから男の前へと進み出た。国永との会話を伺う辺り馴染みの相手なのだろう。俺はこれまでこの男の顔を見た事は無かったが、交わされる会話からすると常連だという雰囲気が見て取れた。

「……大倶利伽羅です、シャンプーとコンディショナーを担当させて頂きます」
「ふふ、礼儀正しいんだね。それじゃあ僕も、……燭台切光忠です。よろしく頼むね、大倶利伽羅くん」

敬称につけられた単語を聞くと相手はおそらく俺よりも歳上なのだろう。客のカルテは生憎と渡されておらず、今初めて知った男の名を小さく口に出した。見上げることで漸く視線が絡むことからも男は随分と身長が高いらしい。俺も低い方では無いにしろ、目算にして180をゆうに超えている上にスーツを身につける肩幅もがっしりとしていてその体躯はまるでモデルのようだとも思えた。加えて、柔和な笑みを浮かべるその顔も恐ろしいほどに整っていた。国永も整っている類の面だが、この男はまた種別の異なる整い方だと感じる。あまりにも凝視しすぎたのか、「どうかしたかい?」と首を緩く傾ける様ですら絵になるのだからこのような男と会話を交わしている事実がどうにも信じられ無いというのも本音だった。

「おっと倶利坊、言い忘れていたが燭台切の右目にはシャンプー剤が入らないよう気をつけてやってくれ」
「国永……店ではその呼び名は止めろ。それから忠告に関しては了解だ」
「燭台切、それじゃ俺は少し引っ込む。暫し倶利坊をよろしく頼むぞ」

傍から聞いているぶんには施術者と客の会話には感じられない。先程も感じたことだが、国永と男は随分と親しい間柄なのだろうということが推測できた。

「相変わらずみたいだね彼は、ふふ、わざわざ君に忠告までしてくれた」
「もちろん、両の眼に入らぬよう注意はする」
「あはは、君も優しいね。でもそこまで緊張しなくても平気だよ、この眼帯も医者が少しばかり大袈裟にしてくれただけだから」
「……すみません、言葉が過ぎました」

不意に口をついて出た砕けた口調に気付くよりも早くに返された返答はからりと軽やかに浮かべられた笑みと共に耳へと届く。次いで口にした謝罪にも男は緩く首を左右に振ると隻眼を細めて笑みを浮かべて見せた。

「そこまで畏まらなくて平気だよ、って何様な物言いだよって感じだけど」

眉を下げて指先で頬を掻く様は少しばかり照れを表した仕草らしい。無意識に首肯していた俺に対して口元を上げた男は「ありがとう、大倶利伽羅くん」と呟いた。


時間を重ねる事で俺がその男に対する口調も、国永同様に砕けたものとなっていた。それは男の纏う空気が成せるものなのか。あれから月一度の来店日には必ずと言っていいほどに男から指名が入るようになった。洗髪で指名とは、と首を傾げたくもなるもののおそらく国永が何かしらの都合を利かせたのだろう。互いに考えているだろうそれを口に出すことは無く、今日も俺はその男……光忠の藍色がかった黒髪へと指を滑らせていた。

「ねぇ大倶利伽羅、今日はこれいらないかも」

“これ”と指し示されたものは洗髪中に目元を覆う紙だった。本来客に水滴が掛からないようにする、視線が絡まないように配慮したもの、そういった用途を持つそれをいらないと言う光忠の意図が読めずに眉を寄せた。相も変わらず笑みを絶やすことの無い男は俺がシャンプー台へと促すタイミングとしっかり示し合わせて上体を寝かせていく。そんな些細な行動すらも数を重ねる内に互いの間合いが分かるようになり、光忠に限っては今では口に出さずともちょうど良い頃合いでシャンプー台へと頭がかけられるようになっていた。

「君の顔を眺めていたくてね」
「ますます意味が分からないな」

先ほど感じたものの口には出さずにいたその言葉が今度は音となって口を出て行った。俺の返しにも気を悪くした素振りを見せることのない男は楽しげにくつくつと喉を鳴らすと軽く右手を上げて手招きしてみせた。促されるままに身を屈めて上体を落とす光忠に合わせてその口元へと耳を寄せればこそりと囁かれたそれに思わず目を見開く羽目となる。

「君のシャンプーがね、とっても心地よくてどうしてだろうって思ったから僕は鶴丸さんにお願いしていつも君に担当してもらえるようにしてもらったんだけど……やっぱり未だに分からなくてね。でも君の手付きや指使いは本当に繊細で、例えば仕上げにマッサージをしてくれる時の圧し方なんかも適度に心地いい強さをもって施してくれるだろう。シャンプーをする際は勿論の事、跳ねた水滴を耳元から拭う手付きも何もかもが気持ちよくてね……君のもとに通ううちにクセになってしまった。だから、」

次いで届けられた言葉は常よりも格段に低められた声音で鼓膜を揺すられた。咄嗟に身体を起こして耳元を押さえれば、俺の反応に少しばかり瞳を瞬かせた光忠は至極緩みきった色を浮かべ目尻を下げて笑っていた。



『今日は君の顔を眺めながら洗ってもらえたら一等に気持ちいいんじゃないか、ってね。なんて、僕が君の顔を見上げながら気持ちよさを味わいたい、っていうのが本音なんだけど』



‐End‐
支部にて別名で上げたもの。
掲載20151115