- ナノ -

見上げた夜空はあの日のまま

見上げた夜空に浮かぶ真ん丸の月。今夜は今年一番に月が大きく見える日なのだと、光忠はそう言って緩く笑ってみせた。街灯の少ない住宅街の路地、最寄り駅からの道すがら不意に立ち止まった光忠に倣うようにして歩みを止めた足はそれから暫くの間動きを再開させることはしなかった。
半歩先で夜空を見上げる光忠の横顔を眺める。見上げた先にあった月と、光忠の横顔を交互に眺めてから再度光忠へと視線を戻した。どうしたの、と。俺と視線を合わせるように高い夜空に向けていた視線を此方へと下げる。こういった仕草が堪らなく好ましいのだと自覚したのはもう随分と昔のことだった。無意識に伸ばした手は光忠が羽織る背広の裾を掴んでいた。 皺になる、 とは言われなかった。珍しいね甘えたかな、と瞳を細めて俺を見つめる光忠の表情をじっと見上げるだけで口を開くことはしない。知らずと絡め取られていた指先は背広の裾ではなく光忠の指先へと触れている。革手袋越しにも感じる手のひらの熱さも、この男の好ましい部分の一つだった。
「前にもこんな月を見た気がするなぁ」
ぽつりと呟かれた言葉に背筋が戦慄くのを感じた。尚も俺に向けられている瞳は細められたままその色は笑みを浮かべている。長い前髪の下に黒い眼帯こそ見えないものの、代わりに覗く色の異なる純白の眼帯は医療用のそれだった。
指先だけを摘まれたまま光忠の甘やかな笑みだけを受け取っていた。頬を掠める夜風に肩が跳ねればそれ迄は人差し指しか包まれていなかった指先の本数が増えるのが分かる。指の股が同じ数だけ光忠のそこと触れ合っていた。泳ぐ指の腹が行き着く先は光忠の骨ばった手の甲だ。血管の浮き具合を撫でて確かめるようにして滑らせた指先の動きは光忠からも同じように返された。
「毎年見ているから、とは言わないんだ」
くすくすと楽しげに声を漏らして笑ったかと思えば、俺と向き合う形で体の向きを変えたせいで今度こそ真正面に光忠の顔がくる。伸ばされた腕は絡んだままの指先ではない方のもの。手の甲でそっと頬を撫でられてから顎先へと指がかけられる。促される形で視線を上げて、一度光忠が持つ蜜柑色の瞳と絡まって、それから更に誘導される形で俺の視界には夜空にぽっかりと浮かぶ月が映った。
「俺も、以前に見たことがある」
「廣光も? ふふ、僕達揃って面白いことを考えるんだね」
俺を廣光と呼ぶ光忠の姓は「燭台切」でなく「長船」だった。また、廣光と光忠に呼ばれる俺自身の姓も「長船」だ。何の因果か、この世に生を受けた時もその右目には光を灯すことのなかった光忠と、かつての己のように龍と思しき痣を左腕に纏った俺。現世での光忠と俺は兄弟であり、恋仲ではなかった。かつての自分達も恋仲だったのか、と問われてしまえばそれにははっきりとした頷きを返すことは躊躇われる。けれど、俺が光忠に情を抱いていることは現世に生まれついて人の身を得た今でも変わることはない。光忠も、種別こそ異なるものの当時と変わらない情を向けてくれていることは伝わってくる。好きだ、と口にすることが許されないのならば。せめて。
「光忠、月が綺麗だな」
「 …… うん、本当に綺麗だね」
折れてもいいよ、とかつての光忠が口にした言葉が返されることのない幻だということは知っている。耳元を擽る指先に込められた情は以前のものとは違うということも知っている。
「まるで、廣光の瞳を見ているみたいだなぁ」
家族愛以外の何物でもないその気持ち。しっかりと納得はしているから、せめて。今夜一晩限りの我儘を口にすることを許してはもらえないか。あんたが、月を俺の瞳のようだと言ったから。
「光忠、理由は聞かずに俺のことを大倶利伽羅、と呼んではもらえないか。一度だけ、それだけでいい」
「 …… ふふ、そんなに苦しそうな顔でお願いされちゃったら理由なんて聞けるわけ無いだろう?」
「光忠」
「冷えてきたから帰ろうか、ね、大倶利伽羅」
歌うように紡がれた名が少しだけ恋しいと思えた。俺の手を引いて歩き始めた光忠の背は、かつて戦場で見たあの背と同じだ。


『ねぇ大倶利伽羅、満月だよ』
『 …… それが、どうかしたか?』
『僕にも不思議なんだけど、夜空に浮かんだあの月を眺めていたら不意に君の瞳みたいだなぁって思えて』
『月、だろう』
『うん、月なんだけどね。戦場で敵を斬って、それからちょっと格好悪いんだけど地面に寝転がって休憩していた時にね夜空に浮かんだ月が見えてさ』
『 …… あんた、夜目は利かないんじゃなかったのか』
『ぼんやりとなら見えるから、そう、その月を見ててね君に会いたくなった』
縁側に腰を掛けて見上げた空には今夜のような真ん丸の月が浮かんでいた。横目に盗み見た光忠は真っ直ぐに夜空を眺めていて、その瞳が細められ笑みを浮かべたのだと思った瞬間には俺の背中に光忠の腕が回されていた。薄い着流し越しに届く鼓動は俺のものか、光忠のものか。次第と区別のつかなくなったその心音は、耳に心地よく響く光忠の柔らかな声音と共にいつまでも俺の記憶に残っている。


「不思議だなぁ、前にもこの名を口にした事があるような気がする」
帰城ではなく、帰宅途中。帰る場所こそ異なるものの、隣に並んだ男はかつてと変わることはなかった。好きだ、その言葉は音にすることはなく俺の身を焦がしていくだろう。



‐End‐
支部にて別名で上げたもの。
掲載20151115(執筆20151004)