- ナノ -

触れたからだ

その姿を再び目にしたのは夜の明けきらない寅の刻を少し刻んだ頃だった。主が鍛刀を行うことで本丸には刀が増える、その仕組を初めて聞いた時は違和感を覚えたものもこの場で生活を始めてしまえばいつの間にか慣れていく。“人の体”を得たことで視界に初めて映った景色はとうの昔に置いてきた懐かしいものだった。戻ってきたのか、と感じるのは刀の身であった時に慣れ親しんだ景色にこの場所がとてもよく似ていたから。主こそ異なるものの、刀本来の戦う、という行為を。姿こそ変わったものの、以前のように行えると知れば己のなかの刀である自分自身が歓喜に震えることを感じた。それはこの本丸にやってきた全ての刀達が覚える感情なのか、巻き込まれた際の酒の席で鍛刀されたその瞬間の感情を口にして話す刀達の姿を数えきれないほど目にしてきた。


常であれば新入りがやってきた際の大広間は騒がしい、けれどもそれが深夜と呼ばれる時間帯となれば別だった。しん、と静まり返った大広間にはたった今この場に連れてこられただろうその刀、主当人と近侍となる国永の姿が見えるだけだった。
その晩は何故かふと目が覚めた。厠に行っておくか、と考えたこともあり寝間着として身につけていた浴衣の帯を締め直してから自室を出た。深夜ならではの冷えきった空気と、裸足の足元から徐々に体の熱を奪われていくことに気付いて思わず小さく舌打ちが漏れる。この体を得てから面倒だと思ったことの一つだ。

「僕は、燭台切光忠。青銅の燭台だって切れるんだよ。……うーん、やっぱり格好つかないな」

うっすらと灯りが漏れている大広間からは小さく話す声が聞こえてくる。主が鍛錬所から連れ帰った新入りを国永に紹介しているらしい。不意に耳を掠めたその名前に床の木目を撫でる足が歩みを止める。襖越しに浮かんでいた影が動きを見せたかと思えば、静かに開けられたその襖の向こう、主と体を向き合わせるようにして言葉を交わしていたその体が、首が。

「やあ、こんな遅くに君が起きだすなんて珍しいな大倶利伽羅」

廊下に立ち竦んだままの俺に気付いた国永は軽い挨拶を投げて寄越すと「今新入りがやってきたところでな、……君の昔馴染みだろう」そう言った。秘め事を話すかのように低く整えられたその声音には些か揶揄うような色が浮かんでいる。驚きを誰よりも愛するこの男は俺が国永の背中越しに見えたその姿に目を見開いたことなどとっくに知っていたらしい。

「光忠、か?」

国永は俺の手を引くようにして広間へと戻る。その手を払うことは簡単ではあるものの、されるがままとなった状態でその男の元へと引きづられてしまえば逃げ場は無い。気付けば、国永はひらひらと手を振って広間を後にするところ。主の姿が見えないことから、奴は国永よりも先に自室へと戻ったようだった。
見上げる位置にある整った顔は当時と変わる事はなかった。刀であった身でどうしてそのような事が言えるのかと問われればそれは感覚でしか過ぎないものだ、詳しく説明を求められたところで俺には応える術を持ち得ない。ただ、そう感じる。その一言でしかなかったのだ。

「……もしかして、大倶利伽羅かい?」

音を伴ったその言葉には驚愕といった感情が含まれている。眼前で俺を見下ろす男は先程の俺の反応と同じように、目を見開いて此方を見ていた。かつての主同様に眼帯によって隠された右目は長い前髪によって覗くことはない。後に残されたもう片方。隻眼の男は俺の名を呟くと同時に口元を手の甲で覆うようにして顔を背けて見せた。

「あんたも、来たんだな」

かつて共に過ごした男への言葉は自身で思うほどにあっさりとしたものになる。俺の言葉に緩い動作で視線を交わした男は、暫しの迷いの素振りを見せた後にそっと頷きを返して寄越した。

「そうだ、倶利坊。燭台切と君は同室らしい、仲良くしろよ」

突然投げられたその言葉は締め切られた襖の向こうから聞こえたものだった。再度、何度か手を振っていた影はそのまま暗闇へと溶けていく。たった今告げられたばかりの言葉に少しばかり口元を緩ませて驚きを隠さない光忠は、再び俺の名を呼んだかと思えばその長身を床へと落とし、胡座をかく形で腰を落ち着かせると整えられた髪を大きく掻き混ぜて見せた。

「君と、また会えた事だって嬉しいのに。ここで一緒に暮らしていけるんだろう? とてつもないご褒美じゃないか」

掠れた声音には気付かない振りをした。眼下より見上げてきた光忠と視線が噛み合えば、その男は情けなく眉を下げたままの表情で困ったように笑ってみせるのだった。


新入りと寝室を共にする者は、この場での過ごし方を先人として相手に教え学ばせていくという決まり事がある。その晩は空き部屋から引き取ってきた布団を俺の自室へと運び込み、それから詳しいことは朝に話すと言って光忠との会話を終えた。初めこそ何かを聞きたげに此方へと視線を送っていた光忠も、言葉を発することはせずに次第にその視線を感じることがなくなり、ちら、と振り返って覗き見た先の瞳は閉じられていた。言葉にすべき事があるのならば光忠は俺に問いていただろう。それがされなかったという事は、今その話をするには時間が遅すぎるということ。この世に新たな体を得て具現された理由については主に聞いているだろうから、今後のことは急くべき問題でもないと判断したのだろう。他人に対しての配慮、という気遣いが出来る事は当時も痛いほどに分かっていた光忠という男の性格であった。


「おはよう、大倶利伽羅」
「……ああ」

光忠と自室を共にして暫く、この場にも慣れた素振りで過ごしていく姿は当時離れたままの光忠そのものだった。光忠が伊達の家を去ってからの話を詳しく聞くことはしなかった。時期を見て話す必要があれば話すだろうし、その必要がなければこれまで通り黙ったままだろう。どちらにせよ、この世で再び出逢うこととなった俺も、光忠も、加えて言うならば国永も。現在の主は当時とは異なる。当時の思い出に浸るよりも先に、刀として本来為すべきことをすれば其れで良いと思っている。

「ねえ、大倶利伽羅はここに来てどれくらい経つんだい?」
「割りと、初期からだ」

俺の短い返答にも光忠は気を悪くしたような表情は見せない。頷きを返した光忠は文机に広げられた文献に目を通しながらも、話の続きとばかりに再度口を開いて見せた。

「鶴丸さんとは僕が伊達の家を出た後に知り合ったんだって?」
「国永に聞いたのか」
「ふふ、君が僕と貞ちゃん以外を名前呼びしていたから驚いちゃってね……余計な探りと知りつつも彼に聞いちゃった」
「別に、どうでもいい」
「あはは、君は相変わらずだなあ」

軽い物言いで返された言葉に棘はない。貞宗の名を久々に耳にした、と思っているのもつかの間腰を上げた光忠は俺の手を掴んだかと思えばその手は強い力で引かれてしまう。言葉を発する暇は与えられなかった、引き寄せられるままに抱き竦まれた体は光忠との体格差も手伝って容易に光忠の腕の中へと収まる。

「光忠」
「ごめん、格好悪い真似はしたくなかったんだけど……暫く、こうしていたい」

音にした名は思っていた以上に柔らかさを纏っていた、己ですら分かってしまったその事に敏いこの男が気付かぬ筈もない。強まった腕の力に再び男の名を呟いた。

「光忠」
「君と離れた後どれだけ時間が経ったんだろう、君が僕の名前を呼ぶ音がこんなに甘かった事があったかな。情けないよ、君と過ごせなかった時間の間に君と過ごした存在の全てに勝ちたいと思ってしまうんだ。人間の感情で言うと嫉妬って言うんだってね、これ」

格好悪い、と己を恥じる光忠は俺の瞳を覗き込むと直ぐに俯いて見せる。先程まで触れ合っていた胸元には少しの隙間が生まれていた。

「慣れ合いを好まない君の特別になりたい、って思っていたの君にはバレているだろうなって思ってた」

光忠がこの本丸にやってきたその日に見たその表情は単純に悲しいという類のものでも、困っているというものでも無い。自分の感情の行き着く先が見えない時に光忠が浮かべて見せるものだった。当時でも滅多に見ることのないその表情を短い期間の間に二度も目にしてしまったことは俺にも得体のしれない感情を与えたらしい。

「俺は新入りがやってきた時、見に行くことはしない。意味、分かるだろうあんたなら」

饒舌に音を紡ぐ口は存外甘えるようになってしまった言葉すらも吐き出してしまう。光忠の頬を撫でるように、伸ばした掌は避けられることもなくそこに触れる。擦り寄るような素振りを見せた光忠の姿に、本丸の軒先へと住み着いた猫の姿を思い出せば意図せず小さく笑みが漏れた。

「……どうして笑うんだい」
「さあな」

拗ねた声色は本人も決まりが悪いようで、じとりと投げられる視線を感じる。その視線から顔を背けることはしないで真っ向から触れ合わせれば、国永とは異なる色合いをもった蜜柑色の瞳が細められるのが分かった。

「光忠、俺はここにいる」
「大倶利伽羅、」
「あんたも、今ここにいるだろう」

額が触れる距離だった。俺の言葉に瞼を伏せた光忠の顔に睫毛の影がかかるのを眺めながら何度も名を呼んだ。まるで、いま名を呼んでおかなければ離れてしまうとばかりに、何度も繰り返しその四文字を音にした。

「一人にしちゃったな、って思っていたはずなのになぁ」
「思っていた、でも」
「でも?」
「あんたとまた戦える、それで良い」

あんたは違うのか、という言葉は音にする前に消えた。強く抱きしめられる事で光忠の肩口へと顔が埋まる。捨てられた子供のように肩を震わせるその男の濃紺の髪へと指先を沈ませると、そこは思っていたより指に馴染んだ。絡まる素振りを見せずに梳かれていく髪と、指を滑らせることで辿り着いた先の毛先を指先で弄んでいれば俺の体を抱きしめたままだった光忠がゆっくりと口を開き言葉を紡いでいった。

「僕も、君とまた戦えることが嬉しくて堪らないよ」

掠れた声音で音にされたその言葉が耳へと届き、脳が理解した頃に互いの体は自然と離れていった。作られた距離は冷たいとは感じない。正面から向き合った光忠からはそれまでのどこか居場所が見つからなく不安といった表情が消えていた。

「君がここにいてくれて、本当に嬉しい」
「礼なら主に言え、相手が違う」

瞬時に返した素っ気も愛想もない言葉を聞いた光忠は目尻を下げて笑って見せる。その表情も、いつだかの記憶に残る光忠そのものに違いがなかった。ここにいる、と光忠に告げたことは本心であったものの、その意味を理解するには先程の短い時間では足りなかったらしい。じんわりと身に染み込んでくる事実。体が触れ合った際にかおるにおい。欲していた物がいま目の前にある事実に体が震える。

「光忠」
「なあに、大倶利伽羅」

見上げた先の男にある瞳と視線が絡み合う。ふわりとかおったにおいによって、光忠の体温を知る。衣服という布越しに感じる熱さは刀であった当時は知ることのなかったものだった。


「おかえり」
「ん、……ただいま」



‐End‐
人間の感情に慣れていない燭台切と、割と人間の感情に慣れてきている大倶利伽羅の話 。支部にて別名で上げたもの。
掲載20150921(執筆20150913)