- ナノ -

lip rouge




 なんとなしに手にとったそれは真っ赤な色をした口紅だった、ちらちらと背後から視線が寄越されるのを感じながら被っていた帽子を深くする。赤にも色々な物があって、暗い赤から明るい赤、発色の良いピンクに近いそれや、むしろ紫じゃねえのかって思えるそれ。単に赤、といったところで多種多様だ。おれの手のひらで遊ばれている赤は、暗くもなく明るすぎず、例えるならトマトのような旨そうな赤だった。プレゼント用ですか、レジにそれを持っていけば店員はそう訊いてくる。短く否定の言葉を返すと少しばかり目を見開いて見せたからきっと男が一人で口紅を買う際の状況としてはたった今おれが返した返答は不適切なのだろうと何故かバツが悪くなって目を逸らした。
 ただいま、とこの部屋に帰ってきて告げる言葉に違和感がなくなったのはいつからだったか。遠い昔のような、けれどもつい最近のような、不思議な感覚を抱きながらもソファでアホ面を晒して眠る嶺二の傍らに腰をおろす。今日はオフだったらしい、何のセットもされていない茶色の髪は寝ぐせのせいか少し落ち着きが無い、まるで嶺二のようだと思ったら頬が自然と緩んで腹が立ったから寝息を漏らす鼻先を指で摘んでやった。指は直ぐ離す。嶺二の鼻を摘んだ指をそのまま上着のポケットに滑り込ませて、シールだけが貼られたまま裸の、さっき買ったばかりの口紅を取り出す。そういえば、これはルージュというのだとレジの店員が言っていたような気がする。彼女さんにですか、きっと喜ばれますね。そのままで良いと言ったわりに憶測で色々と聞いてきた店員の言葉はその単語だけが引っかかった。あと、彼女じゃねえよ、どっちかっつうと彼氏だろ。流石にそうは言わなかったけれど、覚えたばかりの単語を口ずさみながら帰路についたのはつい数分前のこと。
 キャップを開けて繰り出し式のそれを出す。つるんとした表面を触ってみれば指先にほんのりと色がついた。親指の腹と人差し指の腹とですり合わせるとそれは何事もなかったかのように消えて見えなくなる。鼻先に近付けてみると、なんとなく甘い匂いがしたような気もしたけれどそれはきっと気のせいだろう。すう、と寝息をもらす嶺二の、薄く開いた唇にそれをあてがってみた。おれは口紅の塗り方なんてものは知らないし、興味もない。ただ、今日だけは何故か、今こうして目にしている赤の色が意識を奪っていったから。その欲に逆らうことなく買って帰ってきて、そして嶺二の唇へとその赤を塗っていく。唇の中心の膨らみに少し引っかかりを覚えながらも端から端へと慎重に塗っていった。最初こそ何も色づかなかったそこは何回か往復するうちに綺麗に赤が乗って、そこだけ異質になっていく。おれが口紅を塗っていく間も嶺二は目を覚ますことなくされるがままになっている、それを良しとして嶺二の唇に真っ赤なそれを飾り付けてから繰り出した本体を元通りに戻してキャップを閉めた。
 赤く色付いた嶺二の唇に一度だけキスをする。舌を入れて深いそれをしてしまうとせっかくついた色が取れてしまうだろうからあくまでも触れるだけ。何度かそれを繰り返したからおれの唇にも嶺二のそれと同じ色が付いていると思う。それを考えたら不思議と形容しがたい気持ちになってこのまま嶺二と一緒に寝てしまおうと思った。ソファに背中を預けて眠る嶺二の隣で、嶺二の肩を枕代わりにして目を閉じる。起きたら、なんて言われるだろうか。寄越される反応を考えながらも、そっと意識を手放して。手の中からこつん、とルージュが溢れて床へと転がっていった。



-End-
20131015.