- ナノ -

弱い人




 今日ぼくは人を殺しました。手首に平行に引かれた幾本からの筋からは真っ赤な血液が流れ出る感触と、傷口が熱く疼く感触。彼の感じることのできなかったそれをぼくの身体は一心に受けながらすこしずつすこしずつ遠退く意識の最後に思ったこと。君の元にはもう行けないかもしれないけれど、でも、君のことだからこんなぼくのことを放ってはおかないはず、そう考えてしまうぼくはやっぱり君の言う通り弱い人間だったのかもしれないね。


 彼は強い人だ、と誰かがそう表現した。
 彼は一人で歩ける人間だ、と別の誰かがそう言った。
 彼は生に貪欲だ、また別の誰かはそう言葉を繋げた。


「君は強い人だね」
「…、」

 身体を繋げたまま、いつだかの誰かが言っていた言葉を真似して蘭丸へと投げてみた。同時に抱え込んだ腰を引き寄せて奥を突くことも忘れずに、彼がひゅっ、と息を鳴らす様を見ながらぼくは満足げに舌舐めずりをして。蘭丸はそんなぼくに確かこう返してくれた。

「弱ぇよ、てめぇと同じようにおれだって弱い」
「ぼくと同じ?」
「ああ」

 それは一体どういう意味かな、口には出さずに暗にそう伝えるかのように彼のストロベリー色をした瞳を覗き込む。意思の強い瞳は欲に濡れさえしていたけれど、それでもその強さを、彼の内にある強さを表しているように感じられたのだ。ぼくの問い掛けに蘭丸は緩く首を振って、もうこの話は終わりだとばかりにぼくの腰へと巻き付けた両足へと力を込めた。それからはもう互いに熱を吐き出すことでいっぱいいっぱいになってしまってぼくが彼の真意を知る機会はついに得ることは出来なかったのだ。


 蘭丸の触覚が消え失せたのはそれからしばらく経った後の事だった。はじめこそ、彼は誰にもその事を悟らせないようにとしていたらしい。けれどもそれも限界で。歌の練習中にマイクを落とすことからはじまったそれは一気に蘭丸の身体を蝕んでいった。
 ぼくのお気に入りだったストロベリーは強さを失った。ベースを弾けなくなった彼はその瞳を次第に虚ろなものとしていった。しがない友人のぼくはそんな彼に何をしてあげただろうか。おつかれさま、と仕事上がりにハイタッチをすることもなくなった。乾杯、とビールのジョッキを突き合わせることもなくなった。互いの熱を持て余したまま、触れあうこともなくなった。

 身体の関係だけだったぼくらがはじめてキスをしたのは君が静かに横たわる病院の薄暗い霊安室のなかだったよね。君がぼくの前から消えて、ああ、またか、なんて思う暇もないくらいぼくは君を探し求めたのに。全てを終えて、安らかに眠る君の、はじめて触れた唇はずいぶんと前に触れた君の肌の熱さとはかけ離れていて。かたさすら感じさせるその感触に、ぼくはそれ以降マグカップをはじめとした陶磁器や、冷たいガラスの感触に吐き気を覚えるようになったのだ。
 食事こそ摂りはしたけれど、それでも否応なしに触れなければならない食器類。物が留まることを胃が拒否して、口にした途端にトイレに走る始末。君が消えてから、ぼくは体重が10キロ落ちたよ、一ヶ月くらいだったかな確か。

「もう会えないのかな」

 今日ぼくはかつての君がしていたように瞳の片方をストロベリー色に染めている。そうしたことで君が帰ってくることはないのに、どうしたって止めることができないのはどうしてだろう。“あのとき”からずっと使い続けてきたガラパゴス携帯の充電は落としたきり。事務所から支給された君をはじめ、みんなとお揃いだったiPhoneは記念に側に置いておこうと着ているパーカーのポケットに。ご飯を作る代わりに半ば頼み込むようにして受け取った君の、もう主のいない部屋の鍵は同じくポケットのなか、君と共にMCを務めた番組オリジナルのキーチェーンに繋げてある。
 今日までぼくに与えられていた仕事の全ては綺麗に終わらせた。不自然だと感じられるほど、この先三日間のぼくの予定は空白だった。最後にぼくが歌った曲は君をはじめとした彼らとのユニット曲だったんだよ。れいちゃん、とぼくを呼ぶマイガールたちの顔ひとりひとりを見つめて、そうして事務所の入り口で頭を下げての一礼。寿さん、とぼくを呼び止めた彼は今頃はもうひとりの大事な後輩とバラエティの撮影だって言ってたっけ。


「やっぱりぼくは弱いみたいだ、ねえランラン。君に会いたいなあ」

 もう一度君に会えたら、君が消えたことで気付いたぼくの気持ちを伝えたいな。叶うのならば、また君の大きな手で触れてほしかった。叶うのならば、暖かいだろう君の唇にキスがしたかった。さようなら、大好きだよ。



‐End‐
支部に別名義で上げたもの
20131223.