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運良く決まった、世界温泉ツアー。 そんなワクワクが止まらない旅行に行く前に――ケンカを、した。 もう、そもそもの原因が何だったのかはあまり覚えていない。 確かその旅行に関することだったとは思うのだけど、そもそも大樹とクリアには日頃から些細なケンカが絶えなかった。 普段であればその些細なケンカは、これまた本当に些細なキッカケで仲直りへと繋がってしまう。 今回だってそのはずだった。 そのはずだったのだ。 それなのに。 「何だよ!」 「何よ!」 鋭く短い言い合いをし――たのは初めだけ。 残りはほとんどクリアが一方的に大樹を攻めていく。 大樹とて反論したいし言いたいことは山ほどあるのだが、それが言葉になるより先にクリアに言われ、結局思考が追いつかずに言い返すことができないのだ。 「う、うう……っ」 とはいえ、もちろん幼い大樹にそれを黙って甘受できるほどの器があるはずもなく。 むしろ言いたいことを形にすることすらできないことが不満を強く確かなものへと変貌させていく。 だから。 「クリアなんか、」 彼女が呼吸を整えるために一息ついた間に、大きく大きく息を吸い込んで、ありったけの力を込めて、 「クリアなんか大っ嫌いなんだからな――!!」 そう、双子の兄弟に向かって叫んだのだった。 * 下の双子がケンカをするのはいつものことだ。 世界温泉ツアーとやらを引き当ててきたときも、当然大人しく済むはずがないという予感はあった。 ガレージでバイクの点検をしていたシヴァは一息ついたところでふいに顔を上げた。 それとほぼ同時に――第三者が見ればこのことを予想していたのかと思わせるようなタイミングで――部屋の扉が叩かれる。 声をかけると、無言で俯いたままのクリアが中に入ってきた。 シヴァは微笑みを表情に乗せ、軽く手招く。 危険なものも多いここは、普段は兄弟である彼女らも滅多に立ち入れる場所ではない。 しかし、時々、そう、例えば双子の兄弟がケンカをして居場所をなくしたときにはひっそりとその場を少しだけ貸してあげることもあるのだった。 ――クリアはまだ大人しいのでともかく、大樹の方は危なっかしくなかなか入れられないのだけれど。 クリアの瞳のふちはうっすらと赤い。 元から燃えるような赤い瞳ではあるのだが、それとは別に滲んだような赤。 黙っていれば人形のように落ち着き整った顔も、今はふて腐れたようにわずかに歪められている。 「どうかした?」 分かっていてあえてそんな訊き方をしたシヴァをちらと見上げ、クリアは結局口を開かず、ただ黙って傍に座り込んだ。 転がっていたバイクの部品を無言でつつき、転がし、またつつく。 少しばかり汚れてはいたが特に危ないものでもないので、シヴァはただそれを黙って見ていた。 流れゆく沈黙は不思議と重苦しくなく、むしろ穏やかなものへと変わっていく。 それは微笑みを絶やさない彼独特の雰囲気のせいなのかもしれなかったが――少なくともこの家、この空間ではこれが当たり前で。 ひとしきり部品を手元で転がしていたクリアがやがて顔を上げた。 「おにいさま」 「ん?」 「……ありがと」 「どういたしまして」 家族内に対してもどこか礼儀正しさを失わない彼女に合わせるように少しだけおどけ、シヴァはやはり柔らかに笑みを形作るのだった。 * 「優乃姉ー!」 「……また、ケンカしたのか」 部屋を開けるなり飛びついてきた、否、泣き付いてきた弟に優乃は呆れたようにため息をついた。 初めの頃はどうにか仲良くさせようと奮闘していたものの、こうも日常茶飯事ではそれも困難だと知った。 もはやこの家の中における一種の儀式のようなものだ。 下の双子たちはまだ幼いので仕方ないとはいえ、やはり頭が痛い。 何よりこの家だけで済むならまだしも、あと数日で温泉旅行に行くのだから――外でもケンカを繰り広げられてはたまったものではないだろう。周りにいい迷惑である。 「原因は?」 「……う」 彼の目線に合わせるために屈みこんだ優乃に対し、大樹は逆に目を逸らす。 彼は後ろめたさ全開で口ごもり――結局、瞳に涙を溜めたまま俯くだけだった。 それにはたっぷりと罪悪感がこもっているのも見て取れて、優乃は思わず苦笑を漏らす。 「大樹。ごめんなさいは? できるか?」 「だって、だっ、クリアが!」 「クリアが?」 「……オレ、クリアに、大嫌いって、言っ……言っちゃ……」 「嫌いなのか?」 あくまでも鸚鵡返しに問えば、彼はなぜか傷ついたような顔をして。 「嫌いになんて!」 悔しそうに、悲しそうに、痛そうに、苦しそうに。 「嫌いになんてなれるわけねーじゃん、優乃姉のバカぁ〜〜っ!!」 ――自らの言葉に感情が昂ぶってしまったらしく、わんわんと泣き喚きながら飛びついてきた。 (……理不尽な言われようの気もするけどな) 内心で笑いを噛み締め、飛びついてきた頭を軽く掻き撫ぜる。 まるで猫を相手にするかのような手馴れた手つきでわしゃわしゃといじった後、今度は姉として優しく背を撫でた。 「それじゃ、ケンカの原因はともかく」 「……」 「嫌いって言っちゃったことについては謝れるな?」 彼自身も分かっているように、傷つける言葉を放ってしまったことに対して。 そしてもしくは、嘘をついてしまったことに対して。 「……うん」 まだすぐに涙が枯れる気配ではなかったけれど、それでも声を絞り出して確かに大樹はうなずいた。 だから、優乃はパシリと彼の背を叩き、 「よし、それでこそ男だ」 カラリと明るい笑みを向けた。 * ――で。 「……」 「……」 ばったりとリビングで対峙した二人は予想外の遭遇に硬直していた。 互いに謝るつもりではいたが、その覚悟ではいたが――まさかこうもすぐに出くわすとは思っていなかったのだ。 決まりが悪い。出鼻を挫かれた上に心の準備がまだ整っていない。 「……あ、あのさ」 「その」 「「……」」 沈黙。 「……なに」 「ぅえ!? く、クリアこそ何だよ?」 「……私は、後でいい」 「……えっと」 ポツリと呟けば、大樹はあからさまに視線を泳がせ、落ち着かない様子で頭を掻いた。 それでも意を決したらしい彼がこちらを見据え――ハタと瞬く。 「クリア、目、赤いぜ?」 「……赤いのは元からだし、大樹だって」 「お、オレは別に!」 「……私も別に」 「――泣いた?」 「な、泣いたのは大樹でしょ!?」 「うええ!? オレは別に! な、泣くはずないだろー!」 「おねえさまに聞いてやるんだから」 「あああ!? ちょ、ずりぃ! ヒキョーモノー!?」 「全然卑怯じゃないわ、当たり前じゃない」 「優乃姉は関係ないだろー! じゃあじゃあ、オレだってシヴァ兄に聞いてやるんだからな!」 「おにいさまがそう簡単に人の秘密を話すと思う?」 「うううう!?」 言い合いは続き――しかもどうしたってクリアの方が優勢なわけで――やがて、どちらからともなく笑い出した。 どうしてだろう。あれほど気まずかったのに、すっかりいつもの、何てことのない言い合いだ。 きっと周りから見たらくだらなくて、自分たちにとってもどうしようもなくて、それでも、何故だか止まらない。 そんないつもの自分たちなのだ。 「あ、そろそろ夕飯のお手伝いの時間だわ……」 壁にかかった時計を見て思わず呟く。 同じように振り返った大樹もまた目を丸くした。 「あれ? そういやまだご飯食べてないっけ?」 「……大樹がご飯を忘れるなんて珍しい。変なもの、食べた?」 「何でだよ!? ……そうじゃなくて! だってなんか、クリアとケンカしたら……つまんねぇし」 時間が経つのが、何だか妙に遅くて。 他のことを気にする余裕もあまりなくて。 だから。 「だから、うん、……ごめんな!」 そう言って清々しいほど笑って言ってのけた彼にクリアは何度か瞬き――。 「変なの」 「何だよそれー!」 「だって変なんだもの、仕方ないでしょ?」 「うううもう謝んないぞ!」 「じゃあ、今日の夕飯に牛乳たっぷり入れてあげる」 「ぎゃあああ!? いじめぇええ!?」 ――クスクスと、鈴が鳴るような笑いをこぼした。 こうしてまたいつも通りの賑やかさが戻り、はたまたその賑やかさを通り越して旅行先で騒ぎに発展したりもするのだけれど――それはまた、別のお話。
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