はくはくと呼吸が浅くなり、心臓が針を刺されているかのように痛んで、お気に入りのブラウスの胸元をギュッと握りしめる。苦しさで顔を上げていられなくて、俯いたらボトボトと涙がこぼれ、零と一緒に選んだフレアスカートに落ちた涙が歪な水玉模様を描いていった。
いつもなら優しい声で「泣かないで」と言いながら大きな手で涙を拭ってくれるのに目の前に座る彼は身じろぎすらしない。私を見つめる正義の蒼を彩った瞳は何の感情も読み取らせないとばかりに無機質で冷えていて、そこに私は映っていなかった。

「零…どうして……」
「もう名前を愛していないんだ」
「そんな…前に会った時は、愛してるって言ってくれたのに!」
「気が変わったんだ」

 私が涙で顔をぐしゃぐしゃに濡らしながら荒げた声は震えてまともな音にはなっていないのに、零の声はどこまでも冷静で凪いだ海のように静かだ。つい先日の「愛しているよ」と囁きながら頬を撫でてくれた掌の体温も、重ねた唇の感触も、交わした唾液の甘さも、穿たれた昂ぶりの熱さも、全て、しっかりと覚えているのにあれは嘘だったというのか。
いつから、どうして、何がいけなかったの、別れるしか道はないの。頭の中をぐるぐると巡る言葉を口にしようとしても、私の涙が零れる程に冷えていく空気を感じ取ってしまえば飲み込むことしかできなかった。







 懐かしい夢を見た。もう何年も前の出来事なのに未だに鮮明に思い出すことが出来るのはその相手への想いを昇華できず、前に進めないまま過ごしているせいだろうか。あの絶望の日を迎えてから、彼との思い出の名残を感じるのが辛くて連絡先も住む場所も働く場所も変えてしまったのに肝心の彼への想いは変わるばかりか些か拗らせてしまっている感も否めなくなってしまっている。
 全く出会いがなかったわけでもないが、彼以上に心動かされる人に出会えず、お付き合いを始めてもすぐ別れてしまう事を繰り返してしまうからここしばらくはお付き合いに踏み出すことすらやめてしまった。それにしても、ここ暫くは思い出す事も夢に見る事もなかったのに、突然どうしたのだろうかと友人と共に歩きながら思考を飛ばす。友人に誘われて訪れたこの米花町が懐かしい街というわけでもないのに、キッカケが見当たらない回顧になんだか妙な胸騒ぎがした。

「考え事?」
「んー、今日見た夢を思い出してた」
「へぇ、何の夢?」
「大好きだった彼氏にフラらる夢」
「なんでまた?」
「わからないんだよねえ」

 うーんと首を捻る私につられたのか友人まで眉間に皺を寄せて私と同じ仕草をしたのに和んで、さっきまで沈んでいた気分が少しだけ浮上する。いつまでも解らない疑問に囚われるのも勿体無いし、とりあえず今日の夢の事は記憶の隅に追いやる事にした。

「それより、喫茶店行きたいとか珍しいね」
「ハムサンドが美味しいだけじゃなくイケメンもいるって聞いたら行かないわけにはいかないでしょ?」
「でた、面食い」

 自他共に大の面食いである友人は「イケメンは目の保養! 癒し!」と常日頃から豪語しているだけあって、見るからに楽しみですと言った様子で迷いなく足を進めていく。
 程なくして辿り着いたのはかの有名な毛利探偵事務所の入ったビルだった。お昼時を外してきたのもあり、ガラス越しに見える店内はちらほらとお客が見える程度。いざ行かんと意気込む友人がドアを開けるとベルが軽快な音を鳴らし、その後に女性店員さんの心地よい声が店内に響いた。
 案内されるままにソファ席に座ると、さっきの店員さんとは違う「いらっしゃいませ」の声と共にテーブルにお冷やが置かれた。聴こえてきた声は今朝夢に見た彼と同じもので、視界の端に映ったコップを持つ手は褐色だった。
突然上げられた客の顔に驚いた様子でこちらを見る男性店員は、思い描いた通りのミルクティー色の髪に目尻が垂れたブルーの瞳をしていて、実年齢よりもグッと若くみえるハニーフェイスはまるで時が止まっているかのように記憶の中とちっとも変っていなかった。
 見間違えるはずがない姿、聞き間違えるはずがない声、これ以上はないと愛して焦がれた人。聞きたいことが次から次へと溢れるのに、ぽかんと大きく開いてしまった口は塞がる気配がないし、息の吸い方さえもわからなくなってしまった。

「ねぇ、ちょっと、どうしたの?」
「あっ、いや、ごめん。あまりのイケメンにびっくりしちゃって…」
「今までイケメンにもそれほど反応しなかったのに珍しい」
「あはは……」

 ジッと男性店員を見つめる私に戸惑う友人に声をかけられて意識を戻したが、驚きのあまりに手は震え、背中にはじわじわと汗が滲んでいる。交わった瞳はほんの一瞬だけ揺らいだけれど、瞬きした瞬間には何もなかったかのように穏やかなモノに変わっていた。私はまだ驚きや再会できた嬉しさや与えられた情報に対する混乱たちから立ち直れていないのに、彼はその片鱗すらない。

「貴女のような可愛らしい方に褒めていただけるなんて嬉しいですね」

 にっこりという効果音が彼の背後に見えるような笑みは私の知らない笑い方で、初めましてを装う彼に酷く胸が痛んだ。私との過去をなかったことにできる程、彼にとっての私は街中を歩く人々の一人と変わらない、簡単に過ぎ去っていく存在なのだろうか。鼻の奥がツンと痛んで瞳が熱くなるけれど、ここで泣くわけにはいかない。涙を流してしまえば面倒で厄介な女に成り下がってしまうと唇を噛み締めて堪えた。

「注文いいですか?」
「はい、お伺いします」

 友人が私の分まで注文する声を聞きながら深く息を吐き出して気持ちを切り替える。深呼吸を一回だけして、大丈夫と自分に言い聞かせ、今朝見た夢も女性店員に「あむろさん」と呼ばれて返事をしている理由も、警察官になったはずなのに喫茶店で働いている理由も、次々と聞きたいことは溢れてくるけど、全て思考の外に追いやることにした。







 ポアロで食べたハムサンドは頬が溶け落ちてしまいそうなほど美味しかった。客足が落ち着いていたこともあって、社交的な友人は積極的に店員さんに話しかけハムサンドの美味しさの秘訣を聞いていたが、取り繕うのに必死だった私は彼が発していた言葉の記憶が曖昧である。
 会計時に手渡された名刺の裏には手書きの連絡先と一言だけ添えられたメッセージ。甘く幸せだった頃に良く見た右肩上がりで角張った文字にじわりと涙が滲んで視界に靄がかかる。あの頃からちっとも変わらない彼の性格をよく表した字だ。これが渡されたということは、彼は私の知る降谷零で合っているのだろうか。どうするべきなのか迷って、悩んで、打っては消してを繰り返し、最終的に教えられたアドレスに送ったのは「会いたい」の一言だけだった。付き合っていた時にすら送ったことがなかった4文字に心が震える。

「馬鹿みたい……」

 送信しましたの文字が映る携帯を放り投げ、両手で顔を覆う。吐きだした言葉は誰に聞かれるわけでもなく、シンと静まりかえった部屋にかき消えていった。こんな言葉を送ってどうなるというのか。気の迷いとしか言えないようなメッセージへの返事は返ってくる気配がなく、机の上の携帯はお利口さんで静かに横たわっている。自分がどうしてこんな行動をとったのか、彼が何を考えて名刺の裏に連絡先を残したのか、鳴らない携帯を見つめながら考えたけれど堂々巡りでしかなかった。
 思考の海に深く深く沈んでいた私を引き上げたのはインターホンが来訪を告げる音だった。時計を見ると日付が変わろうとしていたからかなりの時間考え込んでいたことになる。

「開けて、くれないか?」

 機械越しに聞こえる声はポアロで聞いたものより低く、話し方だってハムサンドを持ってきた時の人の良さはかき消されてしまっていた。でも、私のよく知る声で、よく知る話し方だ。チェーンロックを外してシリンダーを回せば、こちらからドアノブに手をかけるよりも早く彼がドアを開けて体を滑り込ませてきた。

「れ、零?」

 零は後ろ手にドアを閉めて、そこから動かない。中に入ろうとする素振りもなく、ただただ真っ直ぐに海を閉じ込めた瞳で私を見つめている。私には零ほどの洞察力は備わっていないから彼がどうしてそんな風に私を見つめるのかも、その瞳の奥に何を隠しているのかも計り知ることはできない。

「君からあんなメッセージが届くとは思わなかった」
「ごめんなさい」
「違うんだ。謝らないでくれ」

 私が反射的に謝ると零は端正な顔を辛そうに歪めた。私の言葉に被り気味に出された声は絞り出すようなもので、記憶の中にある勝ち気な彼の姿が見当たらなくて困惑するしかない。

「あんな所で会うなんて思わなかったよ」
「それは私もだよ」
「全て終えるまで会うつもりなんてなかった」
「全てって何?」
「君に会ってしまえば、手を伸ばしてしまうとわかっていたんだ」
「零?」
「別れを告げたのは俺の方なのに、都合がいいのはわかってる」
「ねえ、零、どうしたの?」

 零の口から奔流のように吐き出される言葉に理解が追いつかない。声をかけても聞く気がないようで、零の口は止まらない。

「君を見たら、もう、耐えられなかった。俺は、ずっと変わらずに名前を愛しているんだ」

 零と名前を呼ぼうとして、ひっと嗚咽のように喉が鳴った。零程の人が、自分が何と言って私に別れを告げたのか忘れてしまうなんてことあるわけがないだろう。それなのに、零は今「ずっと」と言わなかったか。フラッシュバックが起きて、私の人生で最も辛い一日が脳内で流れる。あの日と同じように胸が痛んで、グッと胸元を握りしめた。

「あの日、零は、私を愛してないって言った」
「ああ、そうだな」
「気が変わったって」
「馬鹿な嘘をついたと思っているよ」
「なんで、どうして、」
「あの時はそうするしかないと思ったんだ」

 堰き止められなかった涙が視界を滲ませる。零が何を思って別れを口にしたのか、何を思って今ここに来て愛してると告げたのか、思考がまともに働かなくて何一つ考えられない。零を非難したいのに、私の心はただただ零の言葉が嬉しいと叫んでいた。

「もう一度君を一番近くで愛する事を許して欲しい」

 苦しんだ日々の事や昼間の零は一体何者なんだとか言いたい事も聞きたい事も山ほどあるのに、私の体はそれらを全て飲み込んで零の胸元に飛び込んだ。
 ふらつくことなく私を支える逞しい背中にキツく腕を回せば、零の腕も私の背中に回される。優しく名前を呼ばれて顔を上げると、貪るようにキスをされた。そのまま雪崩れ込むようにあがり框を乗り越え、軽々と抱き上げられてワンルームの隅に設置されたベッドへと運び込まれた。ギュッと押し潰さてしまいそうな程強く抱きしめられているのに今はその苦しさが嬉しくて、私を包み込むように香る彼の匂いが懐かしく心地よくて、胸がいっぱいになる。体のラインを確かめるように這わされた手がぴたりと止まり、息継ぎすら許してくれない程激しいキスをしていた唇も離れていった。突然のことに驚いて零を呼ぶと、零はわかりやすく心配げに顔を歪ませた。

「零? どうしたの?」
「久しぶりだから、名前を気持ちよくさせられるか不安なんだ」

 彼にしては珍しく、ぼそぼそと消えてしまいそうな声で視線を彷徨わせながらそう言うから、その姿が可愛くて、愛おしくて、私を愛してくれているという事実が幸せで、目の奥が熱くなりじわじわと目尻に涙が溜まっていく。

「泣かないでくれ。名前に泣かれると辛い」
「今度は嬉し涙だよ」

 一度緩んだ涙腺はそう簡単には締まってくれなくてあっという間に視界を滲ませた。零れ落ちそうになった涙を今回は零の震える指先が拭ってくれてそれがまた涙を誘う。零の首に腕を回して唇を寄せチロリと舐めて、顔を近づけたまま精一杯色っぽく囁く。

「じゃあ、今日は私が零を気持ちよくしてあげるね」

 貪るようなキスは熱く甘く蕩けそうで、夢中になって舌を絡めるのがたまらなく気持ち良くて、今までの時間を埋めるように愛を与え合う行為に溺れる選択肢しかなかった。


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