捌いても捌いても減らない書類の山と無心で格闘していたが「いい加減寝てください」と部下たちに泣きつかれ渋々仮眠室へと行ったのが二時間前のこと。無慈悲なアラームに叩き起こされるまで気絶したように眠っていたのだからやはり連日の徹夜が堪えていたようだ。

「苗字か。帰ったのかと思ったが仮眠だったのか」
「まだ帰れないよ〜。風見はやっと仮眠行ったんだね」
「あぁ、後輩に泣きつかれた」
「君はほっとくと永遠と仕事するからね…」

 顔でも洗うかとすぐ近くの給湯室へ行くと自分と同じく仮眠明けらしい同僚の苗字が歯ブラシと歯磨き粉を手にしていた。ジャケットは羽織っておらず、いつもはきっちりと締められているブラウスのボタンは一つだけ外されている。彼女もまた寝起きなのかぼんやりとした様子で歯磨き粉を出しているが、これがひとたび上司からの指示が飛べば一瞬にして仕事モードに切り替わるのだから染みついた習性というのは恐ろしい。

「進捗はいかが?」
「減る気配がない」
「ですよね〜。知ってた」
「明後日には降谷さんが登庁されるからその資料だけでも完成させないと帰れない」
「私も判が必要なの纏めないとだわ」

 普段はお得意としているポーカーフェイスを崩してげんなりとした様子で歯ブラシを咥える姿に思わず笑うと肘でわき腹をつつかれる。男女の差はあれどさすが現役警察官。結構な威力だったので思わず呻き声を漏らすと苗字はくつくつと肩を揺らしながら笑った。
シャコシャコとリズミカルに動かされる歯ブラシの音をBGMに冷たい水で顔を洗えば引きずっていた眠気は霧散していった。

「なんかさ、こうしてると同棲してるみたいだね」
「ん? あぁ、そうだな」

 隣に俺がいても恥じらうことなく口の中のものを吐き出して掛けられた言葉に深く考えることなく答えるとクスクスと笑う声が聞こえてくる。軽い調子で言われたものだからこちらも軽く返したのだが、間違っていなかったようで彼女に気づかれないようにホッと胸を撫で下ろした。彼女の場合間違っていたとしてもチクリと言い返されるだけだが、降谷さんだといろいろ恐ろしいなと思考を別の方向へ飛ばしてしまう。

「風見とならそういうのも悪くないかもね」

 ひらひらと手を振りながら立ち去る背中を見送って、ついでとばかりに濃いめのコーヒーを淹れるべくケトルのスイッチを入れる。一分少々待機して、注いですぐに口をつけると寝起きでぼんやりとしていた思考がすっきりと晴れていく。
 そして、何気なく、そう、何気なくさっきの会話を思い出していた。

「ちょっと待ってくれ…」

 「同棲みたいだね」「風見とならそういうのも悪くない」その二言がぐるぐると頭の中を巡り、顔に体温が集まっていくのがわかった。寝ぼけていたからかあっさりと返事した自分に誰にも聞かれることのない台詞を吐きだしながら思わず頭を抱える。
 言われた言葉の意味を反芻してみれば彼女の言う通り同棲みたいだとも思うし、うっかり自宅での彼女との朝の一コマを想像してしまいさらに顔が熱くなる。そういう日常も悪くないどころか、送ってみたいとすら思うのだからさらに頭を抱えるしかなかった。


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