「かんぱーい!」と野太い声と共にグラスがぶつかり合う鈍い音が店内に響く。無駄に通る声をした輩が多いと言うのにここぞとばかりに声を張り上げるから、何事かとこちらのテーブルを見る人がちらほらいるのが恥ずかしい。渋々乾杯の音頭に合わせて持ち上げた右手には全く美味しそうに見えない琥珀色の液体が並々と注がれている。ただでさえこの飲み会は乗り気ではないと言うのに、一杯目は問答無用で全員同じものが注文されるのだから初っ端から気分はだだ下がりである。

「苗字ー! 飲んでるかー!」
「いただいてます!」

 かけつけ一杯ですでに出来上がっている先輩に投げやりな返事をしながら、ただただ苦いとしか思えないビールを無理矢理流し込む。おこちゃま舌であるため、グッと眉間に皺が寄ってしまうのも仕方がない。口直しとばかりに目の前に所狭しと並べられた料理をかきこんで味覚を誤魔化すが、飲み放題を基準に選んだこの店の料理は正直イマイチなので誤魔化しきれないのが辛い。ここが地獄か。

「食ってばっかりいないで飲めよ。イケる口だろ?」
「今お腹空いてるんでそっちが優先なんです」
「そう言わず飲めよ」

 テーブルの上にうんざりするほど並べられた茶色い瓶のうちの一つを手に取り、大して減っていない私のグラスに追加のビールが注がれていく。「嘘でしょ…」という絶望の言葉はなんとか唐揚げと一緒に飲み込んだが、顔は取り繕えていたかはわからない。アルハラで訴えたら勝てるんじゃないだろうかと悶々と考えながら、振り出しに戻ったグラスを傾けて唇を濡らす。全くもって美味しくない。

「苗字ちゃんやっほ〜。楽しめてる?」
「ご覧の通りです」
「ん〜、イマイチって所かな?」

 枝豆、唐揚げ、フライドポテト、イカの塩辛、とひたすら食べ物に逃避をしていると斜め上から軽やかな声が降ってきた。箸を置いて見上げると肩まで伸びたサラサラの黒髪を揺らして萩原先輩が近づいてきていた。「よいしょ」と可愛らしく言いながら隣に腰かけると、右手に持っていたグラスをスッと私の目の前に滑らせる。

「なんですか?」
「甘いの飲めないのに間違えて注文しちゃったんだよねぇ」
「はぁ」
「だからさ、そっちのビールと交換してよ」

 私の握るグラスを指差してにっこりと微笑みながら首を傾げる仕草は私よりも遥かに可愛らしい。見た目だけなら甘いもの好きそうなのに苦手なのは意外だな、なんて考えていると動く気配のない私に焦れたのか萩原先輩はそっと私の手からグラスを奪っていき、代わりにさっきまで萩原先輩が持っていたグラスを握らせられる。されるがままになり、自分のより一回りは大きいだろう手をジッと見つめていると隣からクスクスと笑う声が聞こえてきた。

「はい、乾杯」
「か、乾杯?」

 軽くグラスがぶつけられて、反射で手にしているグラスに口をつけるとオレンジの甘さが口内に広がった。さっきまでの苦みがあまりにも苦痛だったせいか、「美味しい」と思わず口にしてしまう。

「やーっと笑った」
「え、」
「苗字ちゃんの歓迎会なのにちっとも楽しめないのは寂しいでしょ?」

 私がビールを飲めないことに気が付いて、助けてくれたのだと気づくには十分すぎた。萩原先輩はずっと離れた席にいたのに気にかけてくれていたのだという優しさにじんわりと心が温まり、さっきまで沈みきっていた気持ちがふわりと浮上する。

「萩原先輩、ありがとうございます」
「なんのことかな?」
「ふふ、萩原先輩は優しいですね」

 あぁ、交通課の同期が萩原先輩はモテるんだよと話していた理由が今ならよくわかる。ただでさえ顔が良いのにこんなに優しくて、スマートな心配りを受けるとうっかりしているとすぐ惚れてしまうだろう。

「まぁ、俺にとっては役得でもあるんだよね」

 突然の言葉に頭にハテナマークを浮かべる私に対して、萩原先輩は悪戯っ子のような笑みを浮かべてビールの入ったグラスに口をつける。ゆっくりとグラスが傾けられる様をよくよく観察してみると、唇が触れている場所はさっきまで私がチビチビと口をつけていた場所だった。

「ごちそうさま。なーんちゃって」

 語尾にハートマークでもついていそうなその台詞は、私の思考をショートさせるには十分すぎる破壊力を持っていた。


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