明日は特別スペシャル・デイなんて歌う声は食器の泡を流す水の音で聞こえないフリ。腹が立つほどいい声で歌っているが、貰えて当然なんて思ってるんじゃないだろうな、と捻くれた考えをしてしまうのも愛嬌だ。
 歌声の主である研二はあと数時間で日付が変わるという頃に突然明日が休みになったからと仕事終わりにドタバタと我が家にやって来てシャワーを浴び、残り物だけどと出した夕食をここ最近忙しかったから明日一日は家でゆっくりしようかなんて話しながら平らげ、今はソファに座って片手には食後のコーヒーを手にしている。休みができたからと泊まりに来るのは珍しくはないが、日付を気にしながら慌てた様子でやってくるのは去年の私の誕生日依頼である。
記念日やイベント毎は女である私より研二の方がマメなのだが、もしかしたら研二は今年のバレンタインは日付が変わってすぐオネダリしようとしているのかもしれないな、と十一から十二へと差す位置を変えようとする短針を見つめる。
 去年のバレンタイン当日は夜しか会えない事もあって前日に作っておいたが、今年はバレンタイン当日は休日なので残念なことに研二の望むものは今はない。お昼に作って、出来立ての一番美味しい時に彼に食べてもらおうと計画しているのだ。

「研二、やけにご機嫌だね?」
「そりゃあ、ねぇ?」
「歌まで歌って催促ですか」
「いやぁ〜? そんなつもりはないけどな〜」
「白々しい……」

 洗い物を済ませて自分の分のコーヒーを持って隣に座ると研二はチラチラと私へ期待の眼差しを向けてくる。そんなに楽しみにされてしまうと用意してないことに罪悪感を感じてしまう。いや、ちゃんと作るつもりだから罪悪感を感じることなんてないんだけどね?
 そもそもバレンタインというものは所詮は製菓会社の陰謀で煽られたイベントであるので律儀に参加する必要などないのだが、悲しいかな研二が喜ぶ顔が見たいがために踊らされてしまうのは惚れた弱みというものか。

 カチカチカチカチ

 秒針がぐるっと一周して日付が研二がご機嫌で歌っていた曲でいうスペシャル・デイに変わる。

「で? 今日は何日ですか?」
「十四日だけど、無いよ」
「……え?」
「いや、手を差し出されても無いものは無いんだよ」
「なんで?! バレンタインだよ?!」
「近所迷惑」

 絶望した!とでかでかと顔に書いて叫ぶ姿に思わず笑ってしまうと研二はわざとらしく頬を膨らませて拗ねてみせた。二十をとうに超えた成人男性がするような仕草ではないのに、やけに似合っていて可愛く見えるのは研二の顔の良さ故だろう。ツンツンと膨らんだ頬をつつくと態とらしく顔を背けられるので、その方向へ回り込んで顔を除くと今度は体ごと背けられる。

「研二〜、拗ねないでよ」
「楽しみにしてたのに……名前は俺のことを好きじゃないのか……」
「いやいや、それはまた別の話でしょうよ」
「バレンタインチョコ貰うために急いで来たのに」
「アメリカでは男性が女性に送るらしいよ?」
「ここは日本だよ」

 こんなに可愛い反応をされてしまうと、大人しく昼に作る事を伝えればいいのについつい悪戯心が顔を覗かせてしまう。最後まで隠し通したらどんな反応をしてくれるのだろうか?キラキラと目を輝かせて喜んでくれるだろうか?
サプライズは得意ではないけれど頑張ってみようかな、なんてウキウキしてしまったりもする。そうやって私が思考を飛ばしているうちに研二は研二で何かを思いついたらしくさっきの拗ねた顔はすっかりなりを潜めて今はいたって真面目な顔をしている。

「研二くんは決めました」
「えっ、何を」
「チョコレートが貰えないなら、もっと甘いものを貰います」
「は?」

 あぁ、この雰囲気は嫌な予感しかしない。
 私の勘は大当たりのようでグッと整った研二の顔が近づいて、鼻先がチロリと舐められた。てっきりキスされるとばかり思っていたから、予想外の行動に驚いて後ずさりしようとした私の腰を研二はガッチリと掴んでにっこりと微笑む。並みの俳優やアイドルよりも妖艶で綺麗な微笑みを至近距離で見せられて、私がただの通りすがりのミーハー女子だったら顔の良さにため息を零し見惚れる所だが、嫌な予感を本能でヒシヒシと感じている私は顔が引きつってしまう。こんな顔をする時の研二は必ず私にとって良くない事を企んでいるのだ。

「もちろん、くれるよね?」

 心なしか語尾に「名前を」と添えられていたような気もするが私の勘違いだと信じたい。やわやわと掴んでいた腰を撫でる手から逃れようと研二の胸を押して突っぱねようとするが、現役の機動隊員にただの一般人が敵うわけがなく、いとも容易く横抱きにされてしまう。足をバタつかせようと、拳で胸元を叩こうと、仰け反ろうとしようと、おそらく寝室へ向かっているであろう足取りは一切揺らぐ事なくしっかりとしている。その上器用に私の両腕と両足をそれぞれ腕一本抑え込み、額にキスをするオマケまでつけてきた。必死な抵抗も虚しく、あっという間にベッドに放り投げられて、囲い込むように研二が覆い被さってくる。

「ちょっと、何するの!」
「何ってわかってるでしょ?」

 野暮な事を聞くんじゃないよと言いたげに齧り付くように私の唇を塞ぐ。重ねるだけのキスは何度か繰り返され、硬く結んだ唇をこじ開けて歯列をなぞる。呼吸がままならなくなり抵抗する力が緩んだ隙を研二が逃すはずがなく、コーヒーの苦さを纏った舌が捻じ込まれてしまった。

「んっ……むぅ……!」

 逃げようと引っ込めた舌は素早く絡め取られ、吸い上げられ、甘噛みされる。口の端から溢れて顎を伝う唾液はぐちゃぐちゃに混ざり合ってどちらのものかわからない。ちょっとした悪戯心で今年の計画を黙ってみただけなのにとんだしっぺ返しを食らっている。こんな事になるなんて思わないじゃないか。言い訳を述べようにもスイッチが入った研二はもう誰も止められない。

 昼に!作るから!

 素直に強請られた時に伝えればよかったと後悔した言葉は縦横無尽に動く舌にチョコレートのように溶かされてしまった。


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