□ □ □


 「私の友達は岩泉くんだけじゃない」という名前の言葉に岩泉は鈍器で殴られたような衝撃を受けた。それまでの自分たちの関係が特別であるかのように錯覚して、自分が名前にとって一番近しい存在であるといつの間にか自惚れていたことを突きつけられ恥ずかしさのあまり叫びだしてしまいそうだった。せり上げる花の不快感と羞恥ともう名前と会話できないのかという悲しみがないまぜになって胸が爆発してしまいそうだ。次々に吐き出される花はまるで自分の心から流れる血が固まりになったかのように赤く色づいている。ぼとぼとと足元に赤の絨毯を作っていくそれが憎くて、踏みしめてみても心はだらだらと血を流し続けるだけだった。
 あの日「告白しないの?」と名前から問いかけられて岩泉はひと時息を詰まらせた。自分の想いが通じて両想いになれるのならそれがいいに決まっている。けれど、自分の想いを伝えることによって今の関係を壊してしまうのが途方もなく怖かったのだ。示し合わすことなくばったり出会った時に「岩泉くん」とふわりと微笑んで名を呼んでくれるのが嬉しくてたまらない。少し離れた場所にいても岩泉の姿を見つけると小さな愛らしい手をひらひらと振ってくれるその姿に愛しさが募る。今のこの幸せを失ってしまうのを想像するだけで岩泉の胸はえぐられるのだ。だから告白はしない。この生活を失うのなら片想いでいい。そういう想いを込めて岩泉は名前の問いに答えた。

「片想いでいいんだ。向こうは俺のことをそういう風に見てないからな」

 その言葉に名前はまるで自分が失恋したかのように傷ついた表情を見せた。その表情の意味を知りたくて、でも知ってしまうのが怖くて、岩泉は次の言葉を紡げなかった。もしかするとその時の会話の中で何か彼女の気に障ることを言ってしまったのかと思いを巡らせたが正解はわからず、吐き出した花の赤さが嫌に目についてそれがなぜか涙を誘った。

「岩泉くん…?」

 突然現れた愛しい彼女が自分の名前を呼ぶのと、はらりと一粒の涙が頬を伝うのはほぼ同時だった。それがきっかけとなったのか次々と溢れては頬を伝う涙を袖で乱暴に拭っても止まることを知らない。

「あの、岩泉くん、どうしたの?」
「なんでもねぇ。大丈夫だ」

 何度も何度も涙を拭ったせいで袖口はすっかり色を変えていて、目元はひりひりと痛む。足元に散らばる花を見ているはずなのに名前はゆっくりとこちらに近づいてきて、花の手前で足を止めた。不格好に涙を流す岩泉の顔を見て、そして足元で鮮やかな赤を彩る花を見て、切なげに胸元のリボンを握りしめた。

「こんなにも岩泉くんに想ってもらえる子が羨ましい」

 震えを帯びた声は風に紛れてしまいそうなほど小さかったけれど、岩泉の耳にははっきりと届いた。なぜ名前がそんなことを言うのか、なぜ今にも泣きそうな顔をしているのか、岩泉はすぐには理解できなかった。

「私は岩泉くんの好きな人になりたかったの」

 そう言うや否や名前の瞳から涙がこぼれた。ぽたぽたと拭われることなく重力に従って落ちていく涙が岩泉の吐き出した花を濡らしていく。名前の口から告げられた言葉を理解して、その衝撃に岩泉の涙は先ほどまでの様子が嘘のようにぴたりと止まった。
涙を拭ってやろうにもポケットに乱雑に突っ込んだハンカチは皺だらけな上、何度か使用しているので彼女の柔らかな肌に押し当てるのは戸惑われた。けれど、どうにかして流れ落ちる涙を拭ってやりたくて名前の頬に手を伸ばしかけたが、どう触れればいいのかわからなくてすんでの所でその手を引っ込めてしまう。涙を見せる名前が言った言葉の意味をきちんと理解することに頭はいっぱいいっぱいでこれ以上岩泉は何かを考える余裕がなかった。

「好きなだけど叶わないのがわかっていて辛かった…。岩泉くんの好きな人に嫉妬して醜くなる自分に耐えられなくて、だったらいっそ離れてしまおうと思ったの」

 そんな岩泉に気づかないのか名前は涙混じりに言葉を続ける。名前から伝えられる彼女の気持ちを聞いて、自分が名前を想っていたのと同じように彼女も岩泉を想ってくれていたのだと知り、岩泉の体は歓喜で震えた。そして言わなければと本能が叫ぶままに自分の想いを言葉にする。

「俺の好きな人は苗字だ。ずっと、花を吐くときは苗字のことを考えていた」

 今度こそ岩泉は名前の頬に手を伸ばし、そこに伝う涙を拭った。上気した頬は温かく、肌は想像していたよりも滑らかで心地よく永遠に触っていたいと思った。くすぐったそうに身を捩った名前の瞳を真っ直ぐに見つめて、大きく深呼吸をする。

「苗字、俺はお前のことが好きだ」

 ぱちりと瞬きをしたのちに名前は頬に当てられていた岩泉の手に自分のそれを重ねた。慈しむように瞳を閉じて岩泉の体温を感じてからゆっくりと口を開く。

「私も岩泉くんのことが好きです」

 視線が交わりどちらともなく微笑むと突然喉がかっと熱くなった。今までとは少し違う感覚に口元を覆い込み上げてきたものを掌に落とす。

「あ…百合の花」
「すげぇな、本当だったんだ」

 吐き出した花はまるで二人の未来を祝福するかのように美しい白銀の輝きを放っていた。


 恋というものがこんなにも切なく苦しいものだとは思わなかった。あの日、泣きながら花を吐くねーちゃんを見て正直辛いならやめてしまえばいいのにと幼心に思った。けれど、恋と言うものはそんなに簡単ではなかった。
 今ものすごくねーちゃんに会って、あの時のねーちゃんの恋と自分の恋について話したいと思った。