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 あいつ、いつ見ても笑顔だな。
 岩泉一の苗字名前に対する印象はそれだけだった。幼馴染で他校にまでファンのいる及川やその取り巻きのような華やかさはなく、容姿も自分のことを棚に上げて評価すればいたって普通。制服は模範生のようにきっちりと着こなされ、肩口で切り揃えられた髪は手を加えられた様子がなく一見地味に見える。それでも、絶やされることのない笑顔は人懐っこく愛嬌があってついつい目が名前を追っていた。

「岩泉くん、数学のノート出してもらえる?あと岩泉くんだけなの」
「わ、わりぃ!ちょっと待ってくれ、今出す」
「あはは、そんなに慌てなくていいよ」

 二年になって同じクラスになった名前は男女分け隔てなく接する事ができて人当たりがいい。よく難しい顔をして怒っているのかと指摘される岩泉にすら物怖じせず声をかける事ができる数少ない女生徒である。そんな名前の周りにはいつも自然と人が集まり、休み時間には男女数人で楽しそうに雑談を交わしている姿をよく目につく。クラスメイトの冗談に子どものようにころころと笑う姿を見かけてはなんとなく話しかけてみたいなと思うものの、バレーばかりでまともに異性を相手にしてこなかったせいか夏も終わろうとしているというのにそれは一向に叶っていなかった。こうして、名前から用がある時にしか会話を交わす事ができずこんな姿を及川たちに見られたらなんと言われるかと想像してはため息をこぼす日々だった。

「ん、催促させて悪かったな」
「いいえー。岩泉くんバレーのことで頭いっぱいだから仕方ないって思ってる」
「は、」
「あれ、違った?」
「いや、そんなことはなくもない、けどよ」
「けど?」
「あー、いや、なんでもない」
「なにそれ」

 クスクスと笑う名前に対してバツが悪くて髪の毛をクシャクシャとやりながら視線をそらせば、名前はさらにクスクスと笑い声を漏らした。その笑顔がなぜかいつもより輝いて見えたような気がしたけれど瞬きをすればいつもの姿しか映らず、ノートを片手に去っていく背中を見送りながら首をかしげるしかなかった。

 それから岩泉から何か話しかけることもなく季節は廻り冬休みも目前と迫っていた。吐く息は白く外は銀世界が広がる時期といえども運動すれば汗もかく。タオルで乱暴に汗をぬぐってふと体育館の入り口に目を向けるとここ数か月でよく視界にいれるようになった名前が岩泉の目に飛び込んできた。
 帰宅前なのか紺のダッフルコートを着て首元には赤いチェックのマフラーを巻いた名前は少し頬を赤らめて目の前に立つ松川を見上げていた。松川が何かを言うと名前は照れたように笑いながら松川の腕を軽くはたく。そんなやり取りを見ていると腹の底がずしりと重くなり、胸がきゅっと締め付けられるような気分になった。
 その瞬間喉がかっと熱を持ち、何かの塊が喉元までせりあがってくる違和感に慌ててタオルで口を押えその場を離れた。人気のない水飲み場まで走り、駆け込んだ勢いのまま体を折り曲げ口を開くとボトボトと花が零れ落ちた。赤、ピンク、白、オレンジ、黄、紫と色とりどりの花が水飲み場を埋め尽くす。

「なっんだよ、これ。ふざけんな」

 岩泉はこの現象を知っていた。実際に目にして、説明も受けた。それでも口をついて出た言葉は否定と悪態と困惑とで言葉を紡ぐ間にも花は容赦なく零れていく。

「嘘だろ…」

 花冠を一つ手にして力いっぱい握りしめると指の隙間から花弁がひらりと舞った。あの時綺麗だと思った花は自分がいざ吐き出してみると憎くてたまらなくて、ちっとも綺麗に思えない。花を吐き出したことによって誘われた生理的な涙が頬を冷やしても頭は冷静になれなくて、名前の顔が頭をちらつく。

「俺は、あいつが、苗字が、好きなのか…」

 口にした言葉に散らばった花たちが「そうだよ」と笑って答えたような気がして、もう一度手にした花を強く握りしめた。