目の前で表情を緩ませる赤葦さんの姿を見て、ぼんやりと数か月前のことを思い出した。タイムマシンがあってその日に戻ることができるなら、その時の僕にぜひアドバイスをしたい。「こいつに助けなど必要ないから、すぐに電話を切って寝ろ」と。くだらない電話に何を血迷ったか律儀に付き合う必要もないし、そんなことしなくても収まるべきところにすべて収まるのだから蚊帳の外でのんびりと過ごして良かったのだ。

「ねぇ、どうしよう。助けてツッキー」

 こちらが声を出すのも待たずに叫ぶように言われた台詞を聞いて、思わず眉間に皺が寄った。久しぶりに聞く声は上ずって震えていて、混乱しているからか口の回りは早い。初めて会った時から十年以上経つというのに全く変わらない様子にため息を漏らすと電話口から非難の声が上がる。

「今何時だと思ってんの」
「それはごめんだけど、聞いてよ! 助けて!」
「助けても何も電話してくれって言われてるんだからすればいいだけの話デショ」
「そうなんだけど〜!!」

 夜は更けて日付が変わろうとしている。明日が休みじゃなければ電話に出ることすらなかったのに、なんの気まぐれか久しぶりに表示された名前を見て、うっかり電話を取ってしまったのだ。過去の想い人に再会しただけで何をこんなに慌てることがあるのかと思ったが、すぐに答えは見つかった。うだうだと語る相手の話を聞き流しながらふと高校時代の映像が脳内を駆け巡った。高校三年の最後の梟谷合宿での夜の事。今の今まで忘れていた、二人っきりの夜の事を。







 第三体育館で行われていた練習は黒尾と木兎そして赤葦が卒業した後も続いた。最終日は影山と日向も巻き込んでの試合形式だった。もうここに来ることはないと珍しく感傷に浸っていたら、少し離れた所で苗字が切なそうに体育館を見つめていたのだ。そして、静かに隣に並んで苦しそうに言葉を紡いだ。

「もしかしてって思ってたけど、私の勘違いだったんだよ」
「なにが?」
「赤葦さんと私」
「何を根拠に」
「だってずっと来なかったじゃん」

 他の部員たちより近い位置で彼女と彼女の想い人のやりとりを見てきた。視線の先にはお互いがいるのに、気づかないのかもどかしい距離を保ったまま先輩である赤葦さんは卒業していった。赤葦さんはとてもわかり易く苗字の事を見つめていた。時には自分に嫉妬の眼差しを向ける程に。それなのになぜ君は気づかないのかと無性に腹が立った。

「私、もう諦める」
「好きにすれば」

 今ここで彼女が求めている言葉が何なのかはわかっていたけれど、節穴な目を持った鈍感野郎に優しくする謂れはない。目に涙をためて怯んだ様子を見せる苗字を見下ろしながら、合宿に一度も顔を出さなかった先輩を思い浮かべた。ここにいるべきなのは僕じゃなくて、貴方ですよ。今後彼に会うことがあった時に嫌味の一つや二つ、うっから口からこぼしてしまってもきっと仕方ない。

「全部全部、私が勝手に舞い上がってただけなんだよ」
「どうかな」

 ただ、交わる先がどこにあるのかはわからないけれど、この二人の道は繋がっているような気がしていた。二人の間には沈黙が流れる。もう、かける言葉はない。でも、空気は揺らいでいて、じっと苗字を見つめた。ポタリと一粒、少し日に焼けた頬を伝って涙が落ちていったけれど、夜の闇に紛れて見えなかったことにした。
 それからどうやってその場を離れたのかは覚えていない。でも、思い出す必要もない。ほらみろ。君は諦められなかったし、諦めなくてよかったじゃないか。長い長い月日が二人の間に流れたけれど、あの日の僕の予感は間違っていなかった。