珍しい二軒目のお誘いを受けて、連れて行ってもらったのは落ち着いたバーだった。カウンターに並んで、赤葦さんは慣れた様子でお酒を注文しマスターと談笑までしている。その一方、バーなんてお洒落な場所は初体験の私は何がなんだかさっぱりわからず「お任せで」と上ずった声で言うのが精いっぱいだった。

「ここ、黒尾さんが学生時代にバイトしてたんだ」
「黒尾さんが?」
「そう。その頃よく来てたんだけど、バーテン姿が似合ってて木兎さんが悔しがってた」
「ふふ、想像できちゃいました」

 酔っているからか赤葦さんは饒舌で、黒尾さんがバイトをしていた時代のエピソードをいくつも話してくれた。時間を忘れて、美味しいお酒をいつもより多く飲み、赤葦さんと離れがたい気持ちが強くなって、無意味にグラスを撫でる。メッセージを受信して立ち上がったスマホの画面を覗けば、終電まであと少しの時間を示していた。本当なら帰れなくなるからって言わなきゃいけないんだろうけど、言わなければ一緒にいられる時間が増えるぞと自分の中の悪魔が囁く。時間に気づかなかったフリをして、ジッと赤葦さんを見つめてみればフッと表情を緩めて私を見てくれた。ほんの数秒だけど言葉もなく、ただお互いを見つめるだけ。ただ、その瞳に、好きだと言われているような気がする時がある。八秒以上見つめあうことができれば相手は自分に好意があると言えると何かのコラムで読んだけど、今の私たちはもっと見つめあっているような気がする。

「次、何か飲む?」
「じゃあ、もう一杯だけ」
「俺もそうしようかな」

 ゆっくりと最後の一杯を飲みながらBGMに耳を傾ける。お互い言葉を発しなくてもその空気が心地よくて、隣に並ぶその腕にすり寄りたいとも思う。きっともう終電の時間は過ぎてしまった。あとは、多分、ほんの少しの勇気を出して口にするだけだ。

「終電、過ぎちゃったね」
「そうみたいですね」

 時間を確認した赤葦さんに続いて、自分も白々しくスマホの画面を見て返事をする。お互い終電はもうない。そして、この店からは赤葦さんの家は少し遠くて私の家の方が近い。赤葦さんが呼んだタクシーを待つ間、ほんの少しいつもより近い位置で隣に並んでみた。手を動かしてしまえば簡単に触れることのできる距離で、深呼吸を一つ。

「あの、赤葦さん、」
「ん?」
「うち、来ませんか」

 ピクリと赤葦さんの肩が揺れて、ゆっくりとこちらに顔が向けられる。驚いたような、でもどこか嬉しそうな顔で赤葦さんは私の名前を呼んで、「はい」と切れ長の目を見つめて言えばその目がスッと細められて大きな掌が私の頭を撫でた。

「お誘いは嬉しいけど、その前に踏むべき段階があると思うんだ」

 そう言った声は優しく、私を見つめる瞳は柔らかい。離れてしまった手が今度は私の手を取った。熱をもつ頬はいつもより多く飲んだお酒のせいなのか、高鳴る鼓動のせいなのかもうわからない。私の手を取る赤葦さんの手も熱くて、少しだけ汗ばんでいる。

「俺は、君が好きだ。梟谷合宿で出会ったあの時からずっと、苗字が好きなんだ」

 返す言葉なんて決まっていて、言わなきゃいけないのに言葉ではなく涙が次々と溢れ出てくる。嬉しい。私も好きです。私も同じなんです。頭では浮かぶのに、うまく声にならなくてただただ頷いた。
 タクシーが私たちを乗せて走り出してもちっとも涙は止まらなくて、赤葦さんは眉を下げながら私の手を握っていた。このままずっと、2人の時間が続けばいいのに。そう願ってもタクシーは私の家の前で止まる。タクシー代を出そうとした私の手をそっと押さえて、赤葦さんは車内から私を見送る。「また連絡する」と言う声が甘くて、愛おしい。

「赤葦さん」

 ようやく出すことのできた声は泣いたせいで少し鼻声で、掠れていた。ゆっくりとドアを支えにして体を屈めて、ドア側に座っている赤葦さんの顔に近づける。経験がないわけじゃないのに、初めてみたいにドキドキする。少し首を傾けて、薄い唇に自分の唇を重ねると赤葦さんの肩が揺れた。ほんの一瞬だけ、小さな子どもがするようなキスをして素早く体を離す。

「おやすみなさい」

 照れくさくて、恥ずかしくて、逃げるように自宅へと駆け込んだ。後ろ手でドアを閉めて、ドアに背を預けたままずるずると崩れ落ちてしまった。
 ようやっと動き出すことができたのは赤葦さんから帰宅を知らせるメッセージが届いたころだった。