徹の「おいで」はずるいと思う。彼は自分の顔の良さをわかっていて、両手を広げて首を少しだけ傾げ、甘く低く囁くように言うのだ。それをやられてしまうとどんなに腹を立てていても、どんなに呆れていても、その両手で包み込んでほしくなって胸元へと飛び込んでしまう。
今だってそうだ。ついさっきまで喧嘩をしていたのに徹は何もなかったのかのように両手を広げている。薄っすらと微笑んで「おいで」といつものように言った後、名前を呼ぶのだ。

「ねぇ、私怒ってるんだけど」
「そうだね。でも、もういいでしょ?」
「やだよ」
「ほら、おいでよ」
「よくないんだって!」

 喧嘩の原因は実のところを言えばもう忘れてしまった。多分私がきっかけ。忘れてしまうほど些細なことをいつまでも引きずるのは良くないとわかっていても、徹の「おいで。」に絆されたようになってしまうのはなんか嫌だ。そう思って怒ったふりを続けているけれど、察しの良い徹はきっと私がもうすでに怒っていないことも、喧嘩の原因を忘れてしまっていることも気づいているのだろう。代り映えのない同じパターンでもあるのだから。

「名前ちゃーん、そろそろ機嫌なおしてくれませんか?」
「こういう時だけちゃん付けで呼ぶよね」
「普段からそうして欲しかった?」
「いらない。キモい」
「キモいは酷くない?」

 わざとらしく徹に背を向けて、低い声で返事をするとわざとらしくため息をつかれた。そうしたいのは私の方だ、と思ってやり返すと笑い声が聞こえる。腕を組んで、ふんと鼻を鳴らして、まだ怒ってますよとアピールする。傍から見れば子供っぽくて滑稽なんだろうけどやらずにはいられなかった。

「俺が悪かったよ」
「思ってないくせに」
「そんなことないよ。徹くんは正直者でしょう?」
「うさんくさい」
「困ったなぁ」

 笑いが隠しきれてない声が聞こえたと思ったら、徹が動く気配がした。

「どうしたら俺の可愛い彼女は機嫌を直してくれるのかな?」

 背中越しに徹のぬくもりが伝わって、首元にかかる吐息がくすぐったい。腰に回された腕は少し苦しいくらいに力が入れられていて、身じろぎして逃げようとしても満足に身体を動かすことができない。

「離してよ」
「嫌だね」

 腕にさらに力が込められて首筋にキスが落とされる。頭の方から付け根にかけてわざとらしくリップ音を響かせながら辿っていく。付け根から少し進んだ所でチリッとした痛みを感じて、思わず声を漏らすと徹はフフッと鼻で笑ってからその場所を舐めた。

「ちょっと! 何するの!」
「やっとこっち見たね」
「なっ、」

 腕の力が緩んだ隙に勢いよく振り返ると、そこにはしてやったりと笑う顔。その顔が腹立たしくて、文句の言葉を続けようとしたら一瞬で唇を奪われ、言葉は飲み込まれてしまう。まんまと徹の策にはまってしまった自分が悔しい。

「俺は名前とイチャイチャしたいんだけどな。だから、おいで?」

 私を抱きしめてしまっているのだからおいでも何もないだろうにそれでもわざとらしく首を傾げて、少し掠れた声で色っぽく言うのは本当にたちが悪い。瞳に熱をはらんで見つめられてしまえば、私のできることと言えば言われるがままに彼に身をゆだねることだけだ。この男にはいつだって負けてしまう。惚れた方が負け。私は徹に出会ったあの瞬間から負けっぱなしなのだ。けれど私だってやられっぱなしは嫌だから、逞しい首元に腕を回して唇を寄せながら考えるのは、どうすればこのずるい男にやり返すことができるのかだ。


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