及川という苗字は宮城で多くみられる苗字で、今までの学校生活で一人は同じ苗字の人がいた。同じ苗字の人と出くわしたときは下の名前で区別すればいいし、佐藤さんや鈴木さんのように多すぎるわけではないから特に不自由なく過ごしてきた。
 元来ビビりな性格故に別の及川さんが怒られていても自分が怒られているかのようにおどおどしてしまうし、不意打ちで呼ばれると悲鳴を上げてしまうこともある。その性格は直さなければと思うけれど、友人に恵まれたこともあって大きな苦難もなく過ごすことができていた。
 しかし、私、及川名前は十五年ちょっとの人生で初めて及川という苗字に生まれてしまった不運を嘆いている。
制服が可愛いからという理由で青葉城西高校を選んだのも心底後悔している。こんなことになるなら大人しく近所の公立高校へ通えばよかった。
 けれど、もう入学して二か月と少し。どうしようもないのだ。

「名前! あそこ見て! 及川さん!」
「え? あ、ほんとだ」
「今日もかっこいいねぇ」

 私の通う青葉城西高校にはそれはそれは有名な及川さんがいる。強豪バレー部のキャプテンで見目麗しいその方は及川徹と言い、常に煌びやかな女子に囲まれている。一度廊下を歩けば黄色い声が上がり、ふわりと微笑むだけでどよめきが起こる。
入学したての頃はあちこちで聞こえる「及川さん!」と彼を呼ぶ声にいちいち反応してきょろきょろと周りを見渡し挙動不審になったりもしていたが、2か月もたてば少しは落ち着いてきた。
 しかし、ほぼ毎日のように聞いていてもちっとも慣れない声がある。

「クソ川てめぇ!!! 今日は昼休みにミーティングするって言っただろうが!!!」
「ぎゃー! 岩ちゃん痛いよ!」
「忘れてるてめぇが悪い!」

 及川徹先輩を連れ戻しにくる同じ3年の岩泉先輩。お腹の底から放たれるその声は太く重くて、ずしーんと私に襲い掛かってくる。びりびりと体が痺れるようにその声が響くたびドキドキと胸が早鐘を打って息苦しくなるのだ。ツンツン頭にキリリとした瞳。以前廊下でちらりと目があった時睨まれているような気がして泣きそうになったこともある。
それほど苦手としているのに、悲しいことに彼の声を聞く機会が多いのだ。







 青葉城西高校では数学と英語は習熟度別にクラスが分かれる。私が所属するクラスは多目的教室で授業が行われるのだが、そこに行くには三年の教室の前を通らなければならない。そわそわと髪を撫でつけたり、キョロキョロと教室の中を覗いたりする友人の横で小さくため息をついていると後ろから怒号が飛んできた。

「及川てめぇふざけんな!!!!」
「ひぃぃぃぃ! すいません!!! すいませんっ!!!!」
「ちょっ、名前?! いきなり何?!」

 及川という単語に条件反射で叫んでしまい、声を聞いた人たちが一斉に私を見た。慌てて友人の背後に隠れてもビシビシと視線が飛んできているのが伝わってきて顔が真っ赤に染まる。友人が私の名前を呼んでいたけれど、あまりの恥ずかしさにひたすら無言で彼女のブラウスを握りしめることしかできない。

「おい、そこの、一年…だよな?」
「あ、はい」
「後ろの奴、名前は」
「及川です。及川名前」

 暴れている心臓を落ち着けようと深呼吸を繰り返していたら、上から声が降って来て思わず飛び上がってしまった。バツが悪そうにうなじを撫でながら岩泉先輩が私を見下ろしている。パクパクと口を動かすだけで声が出せない私に変わって、友人がはきはきと返事していく。何往復か友人とやり取りを終えると岩泉先輩は私のフルネームを紡いだ。

「お前、いつも俺の声にビビってるだろ」
「え、あ、はい、いや、いいえ!」
「どっちだよ」
「え、いや、あの…」
「あー、まぁいい。いつもビビらせて悪ぃな。つっても及川……あそこのいけすかねぇ奴のせいなんだけどよ」
「い、いえ、私の方こそ勝手に反応しちゃってすいません」
「同じ苗字だから仕方ねぇべ。多分今後もしょっちゅう叫ぶけど頑張って慣れてくれ」
「は、はい…」

 「慣れる日は永遠に来る気がしません」なんて言えないから、俯きがちに返事をすると「ふはっ」と吹き出す音が聞こえてくる。恐る恐る顔を上げると岩泉先輩が優しく笑っていて、やっとのことで引いていた熱がまた顔に集中する。びっくりした時とは違うドキドキで胸が煩くて、息苦しくはないのになんだか胸が苦しくなった。驚いたことに笑うと怖くないし、声もびりびりしない。

「もうすぐ予鈴が鳴るな。引き留めて悪かった」
「いえ、あの、すいませんでした」
「気にすんな」

 いつも私に襲い掛かる声が今はなんだかふわふわ包み込んでくれるような優しい気がして、「気にすんな」って微笑んでくれた顔がかっこよかったかも。
 怖い怖いと思っていた人は接してみればそんなことはなくて、もっと知りたいと思ってしまった。自分の事なのに目まぐるしい印象の変化に頭が追いつかない。私の高校生活、どうなっちゃうんだろう…。


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