じっと手元のテキストを見つめる視線に無駄にドキドキして、隣に座っているせいで上品に纏ったコロンの香りを感じることができるのもまた私の心臓を高鳴らせる。用意した椅子も私が使う勉強机も松川先生にとっては小さくて、少し窮屈そうに身を縮めてノートにペンを走らせる姿さえかっこよく見えてしまう。

「名前ちゃん、聞いてる?」
「へ? あっ、すいません!」
「そんなに見つめられたらドキドキしちゃうな」
「あ、いや、その、すいません…」

 誰もが見惚れるようなキラキラしたイケメンではないけれど、私はいつも松川先生の横顔から目が離せなくなる。大学受験のためにお母さんが何も言わず突然頼んだ家庭教師に初めはすごく抵抗があったけれど、こんなに素敵な先生に教えてもらえて今はお母さんに感謝だ。
 丁寧に赤を入れながら公式の説明をしてくれる松川先生の声はじんわりと温かく体に響く。ちょっと難しい問題を正解した時に「よくできました」と言って微笑んでくれるだけで幸せでポワポワしてしまう。ちょっとしたことですぐドキドキして、顔を真っ赤にする私を松川先生は楽しそうに弄ぶのだ。

「ちょっと休憩しよっか」

 ほんのちょっとだけ掌を触れさせて私の頭を撫でて松川先生は伸びをした。隣で私も真似をしてグッと背筋を伸ばせば、指先から足の先まで一気に血が巡ってポワポワしていた頭が覚めるような感覚が広がる。うーんと思わず声が出てしまって慌てて口を押さえると松川先生は勉強机に頬杖をつきながらこっちを見ていて、目が合うと口の端をくいと上げた。

「かわいー」
「ぇえっ?」
「なんてね」
「先生っ!」
「ごめんごめん」

 ちっとも謝るつもりのないトーンで紡がれる謝罪の言葉に毒気を抜かれつつとりあえずの怒っているアピールを続ければ松川先生は仕方ないなと言った様子でため息をついた。その姿ですら色っぽくてズルいなぁなんて思いながら見つめる。

「どうすれば許してくれる?」

 いつもならそのままさらりと躱されて終わるはずのやりとりが今日は予想外の方向に展開した。ぶすくれたふりをしている私の頬をつんつんとつついて、

「合格したらご褒美ください」
「それでいいの?」
「じゃあ、合格のご褒美と頑張れるような何かをください」
「頑張れるような何かねぇ」
「だって走るためには燃料が必要じゃないですか?」
「わかった。目、閉じててね」

 そう言うが早いか松川先生は片手で私の両目を覆ってしまった。視覚が遮断されるとその他の感覚が敏感になるもので、松川先生の手の温度や近くで動く気配を敏く感じ取ってしまう。
 目を覆っていない方の手で美容院で重めに作ってもらった前髪が掻き上げられて広くないおでこが外気にさらされる。そして、ちょうど真ん中あたりに柔らかな感触。それから、やけに大きく響く「チュッ」という音。修学旅行で行った夢の国でメインキャラの彼が頬にキスをしてくれた時のことを思い出した。
 何をされたのか理解した途端、ものすごく恥ずかしくて、ドキドキして、慌ててそこから飛びのいておでこを押さえる。鏡で見なくても真っ赤になっていることがわかるくらい顔が熱くて、驚きで何も言えないまま固まっていると松川先生はクスリと笑った。

「あれ? お気に召さなかった?」
「お気っ、お気にっ? あ、いやっ、え、えええ?」
「ほら、そうやってすぐ顔に出る」
「だ、だって! ええ?!」
「燃料、必要だったんでしょ?」

 意地悪く笑う松川先生の顔を見れなくて、キスをされたおでこを押さえて視線を彷徨わせる。おでこから一気に熱が広がって、今なら私は自分の体で目玉焼きが作れるかもしれない。バクバクと心臓はうるさく鳴り響いていて、こんなに煩いのだから松川先生にまで聞こえてしまっているに違いない。思考が追いつかなくて固まったまま松川先生を見つめていると顎の下に大きな手が添えられて松川先生の方を見上げるように持ち上げられる。いわゆる顎クイ。もうわけがわからなすぎて、「クラスメイトが一度はされてみたいとはしゃいでいたやつだ。自慢できるかな。」なんて変に冷静なことを考えてしまう。グッと寄せられた顔の近さにびっくりしすぎてぽかんと口を開けると少しかさついた親指が下唇をゆっくりなぞった。

「ご褒美はこっちね」

 お互いの睫毛が触れてしまいそうな程に顔を近づけて、吐息混じりに囁く。いつもより濃く香るコロンと口元にかかる吐息の熱さにぞくぞくと感じたことのない感覚が背筋をかけた。初めて見る松川先生の表情にこの人は大人の男の人なんだって思い知らされて、今、私の部屋で2人っきりだという事実がとてつもなく恥ずかしくて穴があったら入りたい。

「俺のためにも絶対合格してよね」

 松川先生はそっと私の手を取って胸元に掌を当てるよう誘う。掌から感じる松川先生の鼓動が私に負けないくらい早く力強くて、私と同じなんだと思うとたまらなく嬉しかった。

「が、頑張ります」

 精いっぱい絞り出した返事はかすれてほとんど音にならなかったけれど、松川先生にはきちんと届いたようで満足そうに頷いてくれた。その顔が、すごく眩しくて、すごく好きだと思った。







title by みつ様


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