幼い頃からずっと変わらずたった一人の人に焦がれてきた。頭を撫でてくれる柔らかな掌も、名前を呼んでくれる形の良い唇も、覗き込めば吸い込まれそうな錯覚に陥る澄んだ瞳もすべてがキラキラと輝いて美しい。
 瞳を閉じればすぐさま彼女はふわりと微笑んで名前を呼んでくれる。そして、透き通るように白い手をゆっくりと伸ばしてふわふわと頭を撫でてくれる。その温かさ、その柔らかさ、その心地良さ、それらを感じるのは何にも代えがたい喜びだった。
 辛いことがあっても、苦しいことがあっても、悲しいことがあっても、彼女の顔を見るだけで途端に癒された。けれど、彼女は遠い。どうしようもなく、遠いのだ。



「こうちゃん? こうちゃんだよね?」

 部活後の自主練を終えて疲れた体を無理矢理動かしてやっとのことで自宅にたどり着けば懐かしい呼び名で呼ばれた。かつてはよく聞いていた声に飛び上がる様に顔をあげると、懐かしい姿が目に飛び込んできた。記憶の中とちっとも変わらない綺麗に伸ばされた黒髪と、記憶の中よりもほんの少し低くなっている声。焦がれていたその人に出会えた歓喜で体温が上昇する。

「私、誰だかわかる?」
「名前ちゃんだべ?」
「あたり! こうちゃんおがったね。もう高校生だっけ?」
「高三だよ」
「高三! うわー! もうそんなになるんだ! 何年ぶりだろう」

 忘れるはずがない。一瞬だって忘れたことなんてないのだ。久しぶりに呼んだ名前は舌を甘く痺れさせる。カツカツとヒールを鳴らして近づいた彼女からふわりと甘い香りが漂って、ドキリと心臓が跳ねた。
 見上げるばかりだった彼女の顔は今や少し見下ろす位置にある。かつては抱き着けばすっぽりと包み込んでくれていた体は、今見ると強く抱きしめてしまえば折れてしまいそうな程華奢で包み込むのは自分の方だと想いを巡らせる。

「名前ちゃん、こっち帰って来てたんだ」
「お父さんがうるさいから顔見せにね。休みとるの大変だったんだよ〜」

 困ったように笑う姿に思わず手を伸ばしかけた。その頬を撫でて唇を重ねてしまいたい。この両手で掻き抱いて胸いっぱいにその甘い香りを吸い込みたい。募るばかりの欲望をぐっと腹の底に押しとどめて無垢な少年を演じる。

「なんだか寂しいなぁ。可愛い弟が知らない間にこんなにおがってるなんて」
「えー、いつまでも小さいままなのは嫌だなぁ」
「そうだけどさ。遠くに行っちゃうみたいで寂しいべ?」
「それでも俺は困るよ。名前ちゃんにはちゃんと男として見てほしいもん」
「え?」

 自分の心臓の音が煩くて、世界の音がかき消されてしまった。すぐ横を通り抜けていった車のエンジン音も、さっきまで聞こえていた子供が親を呼ぶ声も、目の前を何かが通るたびに吠える犬の鳴き声も、すべてがボタン一つでミュートにされたように耳に入らない。ありありと彼女の顔に浮かぶ困惑に、自嘲的な笑みが漏れる。
 知っていた。わかっていた。彼女にとって自分はそういった対象にはなり得ないことを。それでも、胸の内に秘めておくにはこの想いは大きすぎた。

「俺は名前ちゃんを一度だって姉だと思ったことはないよ」

 絞り出した声は小さく震えていて、きちんと彼女に届いたかどうかわからない。それでも、言わずにはいられなかった。
 「初恋は実らない」そんなのくそくらえだと言ってしまいたかった。俺にはそんなくだらないジンクスは関係ないと叫んでしまいたかった。けれど、ほんの数年の差はあまりにも大きくて遠かった。

「名前ちゃんが好きだよ。これからも、ずっと、変わらずに」

 きっとあと数年すれば今は大きい数年の差もちっぽけなものに変わってしまうだろう。だから、どうか俺が追いかけるまで誰のものにもならないでほしい。できるなら、俺の半分でもいいから想いを返してほしい。俺の想いは永遠だと誓うから。
 だから、どうか、なかったことにはしないでほしい。


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