「旅行に行こう」と唐突に言い出したのが一週間前。元々忙しい人で中々予定が合わなくて出かけるのも急に決まることは多かったが旅行に関してはこんなに唐突なのは初めてだった。
 言われた次の日には慌てて有休をとって彼の言うままに支度をすれば、連れてこられたのはこの前テレビで見て「いいなぁ。」と漏らした温泉宿だった。絶景の露天風呂で有名なその宿は標高が高い地にあり、露天風呂だけでなく部屋から見える景色も絵画のように素晴らしかった。辺りは静かで、まるで世間から隔絶されているような気分になる。

「素敵な所」
「あぁ、そうだな」

 思わず窓に駆け寄って景色を覗き込めば、自然な仕草で腰を抱かれる。いつもは力強くバレーボールを叩きつける掌も、私に触れるときはまるでガラス細工に触れるかの如く柔らかく恐る恐るといったように動く。さわさわと形を確かめるようにわき腹を撫でられて、くすぐったさに身を捩ると若利はくすりと笑みをこぼした。

「ちょっと、景色を堪能させてよ」
「すまない。だが久しぶりなのだから少しくらい構わないだろう?」
「もー、ちょっとだけだよ?変なことしないでよ?」
「名前は可愛いな」
「え?なに?」
「可愛い、と」
「そうじゃなくて、さっきの話の流れでどうしてそうなるの」
「思ったことを言ったまでだ」

 若利はたまにこうして唐突に思ったことを口にする。それに対して、私は何年一緒にいても慣れることができないのだ。若利は良くも悪くも物言いがストレートで、想いを真っ直ぐにぶつけてくる。

「キスをしてもいいか?」
「そういうのは聞かなくていいって言ってるじゃない」

 ほら、こうやって恥ずかしげも無く言ってくる。ムードとかそういうのは彼には関係ないのだ。大きな掌が頬を包み込んで、覗き込むように見つめられるとまるで磁石に引きつけられるように視線が逸らせなくなる。触れている掌の温度は高く、その熱さで頬が溶けてしまいそうだ。いっそこのまま溶け合って混ざり合ってしまうのもいいのかもしれない、とさえ思った。こちらを見つめる瞳の奥でゆらゆらと炎が揺らめいて、かかる吐息は甘く香る。ほんの一瞬、掠めるように、少しかさついた唇が触れた。そのほんの少しの触れあいですら体は快楽を拾い上げ、もっともっとと欲を出す。
 離れていく唇を追いかけるように顎を上げれば、さっきよりは長く重ね合わされる。それでも触れるのはわずかで、触れ合った体温が消えていくのが惜しくて、どこでもいいからずっと触れていたいと手を持ち上げるとそうすることがわかっていたかのように指が絡められた。細胞一つすら逃さないと言わんばかりにぎゅっと握られる。

「わかとし・・・」
「こうして名前に触れるのも久しぶりだ」
「んっ・・・」
「早く名前に触れたいと思っていた」

 額と額をくっつけて、鼻先が触れあった状態で低く甘やかに囁かれた。頬を覆っていた掌が輪郭をなぞるように動かされ、思わず声が漏れる。若利の肌は心地いい。初めて肌を触れ合わせた時から私たちは初めから一つだったかのように馴染み、溶け合った。あまりの心地良さに恐怖さえ覚えたほどだ。それから幾度となく肌を触れ合わせて、溶けて、溶けて、を繰り返しても、足りない。むしろ求めてしまうのだ。

「ねぇ、もっと・・・」

 ただ、唇を触れ合わせるだけじゃ足りない。もっと深く溶け合いたい。思わず絡めた手に力を入れると答えるように握り返されて、唇が重ねられる。歯列をなぞられ、薄っすらと口を開ければ待ってましたとばかりに舌がねじ込まれた。このまま押し倒してくれればいいのにと願うも若利は動かない。どちらのものともわからない唾液が口の端から溢れて、顎をつたう。
体は火照り、これからの期待に瞳は潤む。お互いに吐き出した吐息は熱く、高まる欲はとどまるところを知らない。口元を汚した唾液を拭う手に更に期待を高めたのに、その手はすぐに離れた。

「せっかくだから先に温泉に入るか」
「え・・・?」
「今日はまだ長い。続きは後にしよう」

 有無を言わせぬ物言いであっさりと私を抱き上げると部屋の奥の露天風呂へと足を進める。まだ日も高く、明るい所で裸を晒すのは少々恥ずかしい気もしたけれどせっかくの機会だしたまにはいいかと素直に首に腕を回す。ただ、盛り上がった所で止められたのが悔しくて目の前に迫った耳たぶをぺろりとなめてやった。少し体をビクつかせたせいで私まで揺れる。キョトンとした瞳がこちらを見たので、してやったりと態とらしく微笑んでみる。

「お風呂早くすませて、続きしよ?」

 ごくり、と喉がなったのに大変満足したのだけれど、それも数時間後にはたっぷりと後悔する事になる。


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