「ロシアなんて、寒すぎて会いに行けないよ」
「一年中冬ってわけじゃねえし、俺だってこっちに戻ってくるよ」
「なんでロシアなの」
「それに関しては何回も説明しただろ」

 ほんの少し、苛立ったような衛輔の声にバツが悪くてむくれるしかできない。人生における大きな決断をした衛輔に対して私はただただ子供でしかなかった。

「遠距離なんて、無理。できない」
「やってみなきゃわからないだろ」
「嫌だ。無理。できない。別れる」
「俺は名前と別れたくない」
「私を置いてロシアに行っちゃうのに!?」
「ずっとロシアにいるってわけじゃないって言っただろ?」
「でも期間は決めてないんでしょ!?」
「どうしてそれで別れようってなるんだよ!」

 喧嘩らしい喧嘩をしてこなかった私たちのはじめての大喧嘩。私ってこんなに大きな声出せるんだと、自分で驚いた。
 ずっと日本でバレーをする衛輔を応援して、いつかプロポーズを受けて、子供が生まれて、パパみたいなバレー選手になるんだってボールを抱える子供の頭を撫でて二人で笑い合うんだなんて夢を見てた。だから、衛輔が日本以外のどこかに行っちゃうなんて思ってもみなかった。

「もう、行く日は決まってる。今さらやっぱり辞めますなんてできないし、したくない。名前だってわかってるだろ? 何度も話してきたんだし」
「わかりたくない」

 衛輔に簡単に会えなくなる。衛輔の夢だから応援しなきゃとわかってても、感情が先行して聞き分けのいい子になんてなれなかった。

「もうゆっくり頭冷やして考えてくれって言えないんだよ」

 明日、衛輔は飛行機に乗って世界最大の国へ行ってしまう。最後だからときちんと話をしに来てくれたのに、結局私は不毛な駄々をこねて終わらせようとしている。

「もういいよ。知らない。ロシアでもアラスカでも北極でもどこへでも行けばいいよ」
「名前……!」

 時間は有限。衛輔が帰らなきゃいけない時間は着々と迫っている。

「もう時間だね」

 まだ話をしようとする衛輔を無理矢理立たせて、玄関に押しやる。床に置いていたカバンも、着てきたコートも、適当に引っ掴んで、まとめて外へ追い出した。

「バレー、頑張ってね」

 捨て台詞のように吐き出してから、素早くドアを閉めて鍵をかけた。チェーンロックもかけて、足音が遠ざかるのを聞き届けてから、リビングに戻ってうずくまる。
 大抵の我儘は「しょうがないな」って許してくれる衛輔が唯一折れてくれないのが、バレーに関することだった。
 ロシアになんて行かないで。ずっと、日本で、そばにいてよ。ロシア語なんてできないくせに。日本でだってバレーはできるじゃない。
 何を言ったって、衛輔は「しょうがないな」って困ったように笑うことはなかった。クローゼットが狭いからとカーテンレールの隅にかけられた一枚のコートが目に入る。

「これも持って帰ってもらえばよかった」

 私の部屋に一つだけ置いていかれた紺のピーコート。思い立ってお泊まりした日に「これなら今日の格好にも合わせられるから」と借りたコート。その日このコートをいたく気に入った私を見て「男よけにもなるから」とお下がりをくれたのだ。たったそれだけ残して衛輔は強くなるためとロシアに行ってしまう。
 キスもハグもなく、ただの喧嘩別れ。こんなことになるなんて思わなかったし、するつもりもなかった。衛輔の中の最後の私はなんてわがままで酷い女なんだろう。いい加減覚悟を決めて、笑顔で頑張ってと送り出したいと思ったのだ。それなのに、衛輔を好きだという気持ちが邪魔をする。

「名前は俺の最初で最後の人だから。絶対に別れない」

 ロシアの話が出て、それなら別れると言った私に衛輔が言った言葉が頭をよぎる。私だって衛輔が最初で最後の人だ。それなのに、私は……。

「こんなの嫌だ」

 誰にも聞かれない独り言が部屋にひっそり響く。衛輔から貰ったコートを羽織って、部屋の鍵だけ持って駆け出した。
 寂しさはなんとか耐えるから、ロシアにだって会いにいくから、もう別れるなんて言わないから、私に貴方の一番そばで応援させて。
 そう泣き叫びながらしがみついた背中は大きくて逞しかった。
 あたりまえじゃないか。
 そう笑いながら抱きしめてくれた腕は私の人生の中で一番暖かくて強かった。


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