自分が誰かに恋をして、その上その相手と結婚をするなんて、まだまだ遠い未来の話だと思っていた。毎年一つずつ歳を重ねても中身はずっと変わらないままで、龍たちに会えば高校時代のようにバカ騒ぎをする。手にする飲み物がスポーツドリンクやジュースからビールに変わったりと少しの違いはあるけど、根本的なものは何も変わらないままなのだ。それでも朝目が覚めると隣に名前が眠っていて、布団から覗く名前の左手の薬指に嵌められたお揃いの指輪が朝日を反射してキラリと光るのを見て一人でニヤついてから名前をゆり起こす生活は遠い未来でもなんでもなく、まぎれもない今の現実なのだ。

「おはよう名前」
「んん……もうちょっとだけ」
「そう言ってからもう三十分たってるぞ。腹減ったし起きようぜ」
「夕は朝から元気だねぇ……」
「名前は朝が弱いな!」

 バッと勢いよく布団をはぎ取って、唸り声をあげる名前の頭をクシャっと撫でてからベッドから降りる。この様子だときっとしばらくは寝ぼけたまま動けないだろうから朝ご飯は俺が作ろう。食パンを焼いて、卵とソーセージを焼いて、インスタントのスープを入れるだけだが、それだけでも名前は喜んでくれるから苦手な料理も楽しくなるってもんだ。時折寝室に向かって声をかけながら準備をすすめていく。付き合っていた頃はお互いの家に泊まることはあったけど、どこかしらに出かける予定を立てていて慌ただしいことが多かったから、こうしてのんびりと一日を始められるのは結婚してからこそなのかもしれない。お互いの生活があって会える時間が限られていた頃は一分でも無駄にしたくない気持ちが強かったが、今は結婚して二人が同じ家に住んでいて、これからの長い時間を一緒に過ごしていけると思うとただ家にいるだけの時間もいいものに思えてくる。我ながらすごく単純だと思うが、帰る家に名前がいると言うのがすごく幸せなのだ。新婚当初から毎日「ただいま」と「おかえり」を言い合える幸せを噛みしめている。

「もうすぐパンが焼けるぞー!」

 ちゃんと起きているのかどうか怪しい名前は俺の声に力のない返事を返す。迎えに行った方がいいのかと思いつつ寝室の方を見たら、ちょうど名前がドアの前まで出てきた所だった。

「やっと起きたか。今日の調子はどうだ?」
「んー、眠い」
「いつも通りだな」
「顔洗ってくる」
「おう」

 子どものようなあどけない様子で洗面所に向かう名前を見て、また一つ笑みがこぼれる。普段は名前があれこれと俺の世話をやいてくれる立場なのに、朝だけは俺が名前の世話をやくことができる。大地さんや旭さんに「あんまり面倒かけるなよ」なんて言われたこともあったが、案外名前も俺に甘えてくれたりしてるからいいバランスなんじゃないかと俺は思っている。

「美味しそうなご飯ありがとね」
「どういたしまして。目は覚めたか?」
「半分起きた」
「頑張ってあと半分起きような」
「はーい」

 顔を洗って少しだけすっきりした様子の名前の前にフレッシュジュースを置いて、朝食のセッティングは完了。座ったのを見届けてから何も言わずに同じタイミングで手を合わせる。お互いが通じ合っているような気持ちになれるこの瞬間が好きで、いつもにやにやしては名前に指摘される。結婚したばかりというわけでもないのに、些細な事で幸せをかみしめる俺を名前は呆れた様子を見せるけど、それすらも俺にとっては幸せの一つになってしまう。そうやってありきたりな朝食を食べ終えて、一緒に片付けをするまでが俺たちの休日の朝だ。予定があればこれから支度を始めるが、今日はそれもないのでゆったりした部屋着のまま二人でソファに腰を下ろす。適当にザッピングして選んだ番組をBGMにしてぼんやりと過ごすのも、互いの家に帰る時間を気にしなくていいからこそできるようになった過ごし方の一つである。

「そういえば龍のところの子がつかまり立ちするようになったらしいぞ」
「え−、早くない? もうそんな成長してるんだ」
「動画が送られてきたんだけど見るか?」
「見る!」

スマホの画面のむこうで重そうな尻を持ち上げてつかまり立ちをしている龍の子どもを二人で眺める。時折聞こえてくる龍の声があまりにも猫なで声だから二人で気持ち悪いなんて笑ったりして、二人の肩が揺れるたびにぶつかるけれど、お互い離れようとしないのがくすぐったい。

「可愛いねえ」
「確かに可愛いけど、絶対俺たちの子どもの方が可愛いよな」
「親ばか発揮するの早すぎだよ」
「もうすでに可愛いから仕方ない」
「なにそれ」

隣に座る名前のお腹にそっと手をあてる。よく見ないとわからない程度だけど、それでも確かにふくらんだそこには新たな生命が宿っている。お腹を触る度に名前はまだ何もわからないよと笑うのだが、わかっていても触りたくなるのだ。

「いつになったら動くんだ?」
「まだまだ先だよ」
「男かな?女かな?」
「それがわかるのもまだまだ先だって」
「名前に似たら可愛いだろうなあ」
「私は夕そっくりの男の子が見てみたいかも」
「男でも、女でも、バレー好きになってくれたらいいな!」
「そうだね」

 名前から妊娠したと聞かされた時はあまりに自然に言うものだから思わず聞き返してしまう程だった。夕飯のメニューを言うときと同じテンションでさらりと言ってのけるものだからきちんと理解するのに時間がかかって喜ぶまでに妙な間もあいてしまったくらいである。その日から俺の日課の一つに名前のお腹を触る事が加わった。さらにはちょっとした段差だったり、名前の行動だったりが気になって仕方なくなってしまった。名前が何かモノを運ぼうとしたら即代わるし、少しでも辛そうな素振りを見せればベッドに即運ぶ。そんな俺に名前は「過保護すぎる」と呆れているが、実のところ「大げさすぎるけど嬉しい」と言っていたのだと名前の友達がこっそり教えてくれた。ちなみにそれを聞いたときの俺の顔はかなりニヤけていたらしい。

「早く生まれてこーい」
「早すぎるのは困るんだけど」
「そうだった! ちゃんと育ってからできるだけ早く生まれてこーい」
「素直かよ」

 結婚した当初はこのままずっと二人で過ごすのもいいなと思っていた。結婚する事自体が全く想像できなかった自分の未来だったから結婚したその先なんて到底想像できっこなかったのだ。始まったばかりの二人の毎日がずっと続くのだろうかくらいしか考えられなくて、子どもが生まれる未来なんてこれっぽっちも想像できてなかった。最近になって自分の父ちゃんやじいちゃんを思い浮かべてどんな父親になりたいかを考えるけど、やっぱりまだわからないままだ。

「夕はいいお父さんになりそうだよね。この子が生まれたら毎回全力で一緒に遊んでくれそう」
「えっ?」
「あと今の私に対してみたいにめっちゃ過保護になりそうだよね。特に女の子だったら、それこそちょっと怪我しただけでも大騒ぎしそう」
「そんなこと……あるかもな」
「間違いなく田中に負けないくらいの親ばかになるね……ってもうすでになってるか」

 子どもに対しても過保護な俺を想像したのか名前はクスクスと笑っている。そんな名前の様子を見ていると、三人での生活がどんなものかはわからないけどきっと幸せに違いないと思えた。そしたらどんな父親になれるかとかそういうことは考えなくてもいいような気がしてきた。三人で楽しいことも悲しいことも苦しいこともたくさん経験して、じいちゃんに教わった「わからず終いはもったいねえ」ってこともちゃんと教えよう。そうやって全く想像できなかった未来を現実にしていこう。

「なあ名前」
「なあに?」
「ありがとな」
「何が?」
「俺、名前と出会って、結婚できて、すごく幸せだ」
「急にどうしたの」
「言いたくなった。それだけだ」

 顔を真っ赤にして照れる名前に触れるだけのキスをする。ストレートな言葉に名前は相変わらず弱くてすぐ照れてしまう。こんな幸せな日常もちっとも想像できていなかったけど、紛れもない現実の一つである。その現実一つ一つを家族みんなで大切にしていきたい。

「会えるのが楽しみだな」
「そうだね」

 だから早く生まれてこい、俺たちの可愛い可愛い子。お前がいたら俺の幸せはもっともっと大きくなるに違いないから。


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