ごぼっ、
泡の音。闇が支配する場所に、遊紙は居る。
不思議な場所だった。目につくものは何も無い。闇が深すぎて見えないのだ。時折、ごぼり、と何処かで泡が浮かぶ気配だけがある。手を翳してみた。やはり何も見えない。
…海の、底だ。
そう思った。いつの間にか遊紙の内に存在した「常識」が、当たり前に、何の疑問も無く、そう思わせていた。
頭上を見ると、気が遠くなるような遥か彼方に、暖かい光がちらちらと漂っていた。闇の色は、黒から青へ。あそこが海面なのだろう。
声を出す気にはならなかった。この静寂を破ってはいけないと、そう「常識」が告げていた。
ごぼ、
何処かで泡が浮かんだ。目蓋を閉じる。暗闇から暗闇になっただけだった。
そう時間が経たない内に気付いた。ごぼごぼ、水音に混ざって、何かが聞こえる。
「 」
――声?
声は奇妙に反響して耳に届いた。静寂を破らずに、遊紙の頭に直接囁くような声。周りにいきものの気配は無い。
ごぼり。
わたし、人魚姫で一番不幸なのは、お姉さんたちだと思うの。
聞いたことのある声だと思った。
誰だろう。誰だっただろう。思考が乱れ、一瞬の映像が脳裏を過る。女の子。絵本。人魚姫。ああ、彼女は「人魚姫」が好きだと、そう言っていた。不思議と顔は分からない。
かわいそうなお姉さん。可愛い、可愛い、妹を―
声が大きくなる。
それに呼応するように、遊紙の足下、深く深く広がる海が、突然、哭いた。
――おのれ。
王子様はきっと、人魚姫のことなんて、忘れてしまうんでしょう。
――ニンゲン。ニンゲン。ニンゲンめ。
――あの子は。
可哀想な人魚姫。可哀想な、お姉さん…
――あの子は、泡になるために
生まれてきたのではない!
――ニンゲンめ。二本足の獣め…!
闇が震えた。人間を呪う人魚の歌。
背筋が寒くなる。途端に恐ろしくなった。
にんげん。俺は、人間だ。何で俺は、こんなところにいる?
息が出来なくなった。いや、今まで息をしていたのかどうかも分からない。喉に手を掛ける。乱した呼吸の合間に、水が、闇が、肺に――――――
「…魚住くん!」
「っ!」
がたん!
ひどく噎せながら、弾かれるように目を開けた。視界いっぱいの血の色。いつも通りの教室が、夕暮れに赤く染まっていた。ひんやりした空気が遊紙を包む。
「―――…っ」
荒い呼吸を繰り返す。肺にまだ重く感触が残るようで、何度も咳き込んだ。
「だ、大丈夫?」
「――……、みょうじ、さん…」
隣に立つ少女が困惑している。夕陽に照らされた顔が、心配そうに遊紙を覗き込む。手にした「人魚姫」が目に入った。
「教室見たら、魚住くんが眠ってて…なんだか苦しそうにしてたから、つい…」
「……そ、か。いや、ありがとう…」
「あ…良かった…、変な話なんだけどね、なんか、溺れてるみたいだったよ」
お魚になった夢でも、見たの?
少女が微笑む。赤を背景に、黒の夢がちらついた。
――ニンゲンめ。
「………魚は、溺れないよ」
そう言って、笑った。
あの時。海底で溺れたのは、確かにヒトだったのだ。
深海にて