小説 | ナノ



かつん。

床が硬い音を立てる。サカマタは独り、廊下を歩いていた。


館長伊佐奈が突然一頭のシロイルカを連れて帰って来てから、一月ほど経つ。
何も語らず、館長室に程近い一室に水槽を用意させ、「彼女」を変身させてから、伊佐奈は言ったのだった。

「シャチ。仕事をやるよ」



あいつを嗤って来い。

変身させられたシロイルカは、美しい少女の姿をしていた。
伊佐奈は彼女を「なまえ」と呼んだ。なまえが名乗ったのか、それとも伊佐奈が名付けたのか知らないが。
それから毎日、サカマタはなまえの元へ足を運んだ。なまえを嗤うために。

「帰して」、となまえは泣いた。海へ帰りたい、と。広い水槽ではあったが、手枷を付けられたなまえでは自由に泳ぐことすら出来ない。
伊佐奈はやはり、なまえを群れから拉致して来た様だった。

怯え、助けを求める悲痛な声を嘲笑い、一月。日を追ってなまえの心は削られた。おねがい、ころしてください、そう言ったなまえに、伊佐奈は笑った。

帰れなくなって良いならな。


伊佐奈には帰す気など無いだろう。しかしそう言われては、死ぬことも出来ない。
―ああ、悪趣味だ。

かつん。

部屋の前で足を止める。扉を開けると、仄暗い水槽の底に力無く横たわるなまえが、小さく動いた。

「サカマタ、さん…」

手枷から伸びる鎖が鳴る。水槽の内側から、なまえがサカマタを呼んだ。悲しげに、数え切れないくらい叫んだ言葉を繰り返す。

「……かえり、たい…」
「泣くしか能が無ぇのか」

変わらないサカマタの態度。はらはらと涙が零れる。あまり日を待たず、壊れてしまうだろう。


ああ悪趣味だ。泣くしか能が無いのは、本当は誰だ?
伊佐奈を恐れ、海の頂点である誇りを捨て、為す術無く言いなりになる自分と。
閉じ込められ嘲られ、壊れていくなまえと、一体何が違うと言うのだろう。

―なまえは、俺そのものだ。
水槽の中のなまえを嗤うのは、自分を嗤うのと同じ事だ。
伊佐奈は全て分かっている。サカマタがそのことに気付いていることも、知っている。その上での仕事だ。嗤え、と。
救えない。誰も彼も。


「……哀れな魚だ」


呟いた言葉は、誰に向けたものだろうか。
光を無くした瞳から、また涙が零れた。



水葬


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