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  • 大切なのは諦めないこと 後

教授の研究室は、実にシンプルだった。何も無い、と言ってもいい。
大学に通い始めてから、様々な専門の教授と出会い、研究室に伺ってきた。
それぞれ教授らしいレイアウトがされていて、本棚は必須。
雪崩が起きるのでは、と不安になる程積み重ねられた専門書、講義で使用される資料用のプリント。
机の上はどんなに几帳面な、綺麗好きの教授でも、学生達から回収したレポート用紙や数冊の本、ファイリングされたものがそれぞれ乗っていて、ドアを開けると、机に向かっている教授の顔が半分程しか見えない、それが私が大学生活をしてきての研究室的常識だった。

だから、教授の研究室に入った時には、正直度肝を抜かれた。
大学から与えられたであろう大型の本棚には、隙間だらけで数十冊の本がばらばらに設置され、一段に対する冊数が少ない事で斜めに倒れていたり、完全に棚に寝そべっているものばかりだった。
机の上もそうだった。
右側にはおそらくこの間の講義中に集めた学生達の小論文プリントが積み重なっているが、それだけである。
どんなに目をじっと凝らしても、机の上にはそれしか乗っていない。
今まで自分が常識だと思っていた事が、ことごとく崩れ去る、この人に対してはそんな事ばかりだ、と慣れてはいたもののはがゆい気持ちが抜けず、教授に分からないよう、そっと溜息をついた。

「…何か飲む?」
椅子に座りながらレポート用紙に向き合ってた教授は、席を立ち私を迎える訳でもなく、かといって無視をする訳でもなく、椅子に座ったまま私を軽く上目遣いで見つめながらそう言った。
確かに教授室には保温ポットとお茶セットが大概設置されているが、こんなシンプルな部屋にそんな素敵なセットがあるのか疑問しか浮かばなかった。
だが、教授の言うように、確かに「飲みます」と言えば出てくるのだろう。
始めは気づかなかったが、よくよく辺りを見回すと、奥の壁際に細長い棚があり、その上にポットが見えた。

「ミルクティー…飲めますか?」細々と呟いてみると、聞き取りずらかったのか教授は立ち上がって私の立っている所まで近づいてきた。

私はドア付近で立ちつくしていた。
動けなかったというより、どう動いていいのか分からなかったから。
そんな様子も察したのか、無言で目の前にある客用の机を指差し、椅子を引いて私を誘導してくれた。ゆっくりとその指定された席に腰を下ろす。
「で?何飲むの?」
隣でいつもの無表情のまま教授が声をかける。

「ミルクティーがいいです…」
「ストレートじゃダメなの?」また無表情の為全く掴めない。

これは「注文つけやがって」という嫌みなのか、それとも単純な質問なのか…。
年齢を重ねた女性ならすぐに察知出来るのだろうか、そう思った所で私の年齢と経験は変わらないし、考えても仕方ない事だ。
教授だからこそ、考えても仕方ないのかもしれない。
だって、普段から全く掴めない人なんだから。

「苦いの苦手なので…その、出来ればミルクを入れて、ほしいです」
座っている私は自然と教授を見上げる形になる。
目に映る教授の姿は、やっぱり綺麗な顔立ちをしていた。
一瞬息をのんだ。見とれてはいけない、顔を赤らめてはいけない。
教授と話をしたければ、不純な気持ちは捨てなければならない。
教授の講義が好きだ。それは自分の恋愛感情を差し引いても断言出来る。
けど、もしそんな自分の女の部分を出して拒否された場合、私は冷静に教授の講義を受ける事が出来るだろうか。割り切る事が出来ないなら初めから好きにならなければいいのに、そう自分で自分に囁きかける。

もう手遅れだった。
というより、好きだと自覚した時から後戻りは出来ない程、教授への恋心は深かった。
もし、もし教授に自分の気持ちがばれてしまったら、今まで冷たくあしらわれてきた学生達と同じだ。その時の教授が学生達を見る冷たく、無機質な目を思い出して鳥肌が立つ。
私の恋は、相手に気付かれてしまった時点で終わるのだ。
特別扱いしてほしい訳ではない。
確かにそう感じる時もあるが、すぐに蓋をしめる。
話を出来ればいい、目を見て会話が出来れば、私にはそれで十分だと言い聞かす。
それでいい、それがいいんだ。

そして言い聞かせた所でまたじっと教授を見つめると、目を見開いて驚いたように私を見下していた。

「…子供だな」そう言って、ゆっくりと口元を緩めた。
表情が変わり、少し笑ったように見えたその顔を見ただけで、さっき自分に戒めた事が無駄になりそうな程、動揺した。

「人間、苦手なものは沢山あります」我に返って、少しむっとした顔をして返す。
「俺には苦手なものはない」腕を組みそう断言する教授は、いつもより幼く見えた。
「嘘です、あります」
「ないったらない」
「じゃあ当てます!教授は甘いものが苦手です!」つい私も興奮して、指をさして答えてしまった。
出した指をどうごまかしたらいいのか分からない。
少し手が震えていると、「…何で分かった?」と不思議そうな顔で私の隣にある椅子に腰かけた。

「えと、私がミルクを入れてと言った時びっくりしたので、もしかして教授はそういう習慣がないのかな?と…で、紅茶に砂糖を入れずミルクだけ入れる方は珍しいので、入れないのならそもそも砂糖を入れない、つまり甘いものが苦手、という結論です」
緊張しながらも答えると、今度は感心したような顔になった。

もしかしたらこの人は、表情がころころ変わる人なのかもしれない。
自分の知らない、おそらく皆も知らない教授の姿を見れた気がして、少し得意げになった。胸が、熱くなった。

「相川七海」
「は、はい!」

突然名前を呼ばれ、慌てて返事をすると、目の前に広がったのは予想外のものだった。
まるで世界が変わったかのように、周りが光で満ちたような感覚だった。

「100点だ」
そう言って、笑った。
満面の笑み、だった。

こんな顔わたしは知らない。
こんなにも優しく、そして少し幼く笑う教授をわたしは知らない。
心臓がぎゅっと押しつぶされるような感覚になる。手が震える、自分の体温が全部顔に上がっていくような感覚、心臓の音が教授にも聞こえてしまうのではないかと思う程だった。

どうしよう、どうしたら、欲は出しちゃだめ。嫌われたくない。
好きになってほしいなんて我侭言わないから、せめて普通の、平凡の存在になっていたい。
それ以下になったら私どうなるか分からない。
苦しくて苦しくて、考えるだけでも涙ぐんでしまう。
でも、少し、ほんの少しだけ、欲が出てしまう。
この笑顔を見れるのは、私だけだったらいいのに。
私だけに笑いかけてくれればいいのに。
この気持ちは蓋をしめさせてくれない。

諦めたくない。何年かかるか分からない。
卒業の方が先かもしれない。もう二度と見れないかもしれない。
でも、それでもやっぱり教授が好きで、教授の笑った顔を見れれば一生結婚出来なくてもいいと思った。例えこの気持ちが報われなくても、こんな笑顔を私に見せてくれるならそれでもいいと思った。

欲望は抑えがきかないものかもしれない。
今はよくても、もっともっとと欲しがってしまうかもしれない。それでも、今は純粋にそう思う。

諦めたくない、諦めない。

教授の笑顔を見つめながら、決心した今の私は、きっと誰よりも何よりも輝いているような気がした。
先生の周りに煌びやかに存在するこの輝きに、少しだけ近づけたような気がした。


(じゃ、緑茶に砂糖とミルク入れればいいんだな)
(ちょ、やめてください!!)



end

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