ぐしゃっと丸めて捨ててしまいたい、こんな感情は



 塾で習ったことがだんだんと模試の結果に表れてきた。学校での授業だけでは到底太刀打ちできなかったけれど、塾に通い受験に備えた勉強を始めたことにより志望の大学合格へのほんの僅かな光が見えてきた。
 学校での授業を終え、夏期講習の申込用紙を鞄に入れて塾へと向かう。途中でコンビニに寄って新作のお菓子がないか見ていると、どら焼きを見つける。
 木吉は元気だろうか。そろそろ退院するという話を噂で聞いたけれど、わたしには彼はもう遠い人だった。
 ふっくりと膨らんだどら焼き、の隣にあった餡ドーナツの袋を手に取ってレジに出す。糖分を取ってもうひとがんばり勉強をしよう。
高校の授業の最初で躓いていたらわたしは勉強なんて大嫌いだったと思う。木吉がわかりやすく教えてくれたおかげで、なんとかついていくことができ、大学を目指そうと決めた。
 わたしの中にまだ木吉がいる。けれど、それは一方通行の線だった。それでもいいと思いたい。
だから木吉には会いたくなどなかった。欲張りになってしまうのが怖いから。

「舞花、呼んでるよ」
 放課後になり帰り支度をしていると、クラスメートの女子がわたしの肩をとんとんと叩いた。彼女の目線の先を追うと、教室の後ろの扉に木吉が立っていた。
 わたしと目が合うと、あの笑顔を見せて軽く手を挙げた。
 変わらない。木吉は相変わらずの朗らかな雰囲気を纏っていた。
逃げ出してしまいたくなったけれど、それはあまりに強引すぎて、渋々立ち上がり彼の元へと足を進めた。
 廊下に出て窓の近くに立つと一年の春、楽しそうにお喋りしていた男女二人組と同じようなことをしていると思った。全ての男女たちが本当に楽しそうだったのだろうか、今では思い出すことも出来ない。
「退院したんだね」
「ああ、舞花にも連絡しようかと思ったけど、どうやら嫌われたみたいだからやめておいた」
 目の奥の感情が読めない。思わず視線を逸らしてしまうと、目の前に黒飴の袋が差し出された。
「飴ちゃんやるよ、舞花には入院中いろいろ世話になったからな」
 律儀にそんなことを気にするなら、最初からわたしなんて呼ばなければ良かったのに。どら焼きなんてどうでもよかったじゃない。
そう声に出してしまいたかった。
 押し黙って、受け取ろうともせずに突っ立っていると、木吉はわたしの手首を掴んでその袋を握らせた。
 その手は冷たくなかった。あの日触れた木吉の広い肩は目の前にあるのに、遠くて遠くて霞んでしまいそうだった。
「ありがとう」
 受け取って礼を言っても木吉はわたしの手を離さずに、立ち去る様子もない。痺れを切らして顔を上げると、まるで泣いてしまう一歩手前のように顔を歪めてわたしを見下ろしていた。
廊下をすれ違う人たちの目が気になって、手を振り払おうと左右に手首を振ったけれど、うまく振り解けない。
「離して、痛いから」
 痛いというのは嘘だった。いや、掴まれた手首は痛くなかったけれど、胸の奥がずきずきと痛かったから強ち嘘でもなかったかもしれない。
 木吉はそのままわたしの手を引いて、非常階段へと繋がるドアを開けた。
むわっと絡みつく熱気と蝉の鳴き声。季節はあの日から一回り進んでさらにその先まで来ていた。
「……否定してくれないんだな」
 ドアがゆっくり閉まると木吉は静かにそう呟いた。
 わたしにどんな答えを求めているのか、何も読めない。
 本心のまま答えてしまえば木吉を困らせてしまうとわかっているのに、否定して友人の顔をして笑えばいいのか。
嫌いじゃない。でも、好きだという気持ちをしまって笑えるほどには、まだ木吉への気持ちを諦めきれてなどいない。
 ぐん、と思い切り力を入れて手首を自分のほうへ引き、木吉の手を振り払うとそれはさっきよりもずっと簡単に解けた。
 そんなふうに簡単に解けてしまう、わたしと木吉の繋がりなんて。
 やっと楽になってきた。木吉のことばかり考えて苦しかった冬を抜けて、春になり、彼との思い出の輪郭がぼやけてきていたのに、どうしてまたわたしの前に顔を見せるの。
 そのまま持っていた黒飴の袋を木吉に投げつけると、ガシャッと中の飴が音を立てて彼の肩にぶつかった。それは悔しいことに、蝉の声に掻き消されてしまいそうなほどの弱い響きだった。
「飴なんていらない!何度も言わせないでよ!」
 そう声を荒げても木吉は動揺する素振りも見せずに、静かに悲しそうに瞳を揺らして突っ立っていた。そして階段の踊り場に落ちた飴の袋を拾い上げた。
「ごめん、そうだったな」
 彼は覚えていたのだろうか。わたしと交わした会話の数々を。どうでもいいことだと聞き流してはいなかったのだろうか。
「わたし、木吉のことが好きなの。だからこういうことは二度としないで」
 期待なんてしない。そうやって何度も言い聞かせても勝手に、もしかしたらと淡い希望が頭を擡げる。
関わったら辛いだけ。いつまでも忘れられないだけだった。
「……知ってたよ」
 ドアノブに手を掛けた背中に掛けられた彼の言葉に足が止まった。頭の中が真っ白になる。木吉と相田さんが付き合い始めたことを聞いたときと同じような動揺が一気に全身を駆け巡った。
「ごめん。ずっと舞花の気持ちに付け込んでたんだ、オレ……」
 聞きたくもないことを木吉の声が紡いでいく。早くここから去ってしまえ、と思うのに震えて足がうまく動かせない。
「一人で過ごす時間が怖かった。余計なことばっかり考えるから。舞花は傍にいてくれると思って、縋ってた」
 現実なんてそんなものだ。必要とされていると浮かれて本当に馬鹿だった。
「舞花が健気に病院に通ってくれてたから、いい気になってた。最低だった。愛想尽かされて当然だよな」
 大丈夫。こんなこと、前にもあった。たいしたことじゃない。これできっぱり彼のことを諦められる。
望みなど、ほんのひとかけらもなかった。
「……もう、いいよ」
「舞花が傍にいてくれて嬉しかった。その気持ちに嘘はない。冬にバスケの大きな大会があるんだ、舞花にも試合を観に来て、」
「下の名前で呼ぶのはやめて!」
 ヒステリックに染められた声はまるで自分の声じゃないみたいだった。
「……ごめん」
「もう顔も見たくない」
 木吉のことは信じていた。わたしの気持ちに胡座をかいて、好き勝手に踏み荒らしたりなどしないと。
 怪我で弱気になっていたせい。しょうがないことだった。それで木吉が少しでも救われていたなら良かったじゃない。
そう思いたいのに、ドアを開けて廊下に出ると勝手に涙が滲んできて、視界はぼやけてしまった。


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