凍る精彩



「木吉、バスケの試合で怪我してしばらく入院するんだって」
「えッ?うそ!?」
 夏休みに入る直前の、朝から茹だる様に暑い日だった。目の前の黒板の左端に公休「木吉」と書かれている文字をふと見てしまった。
少し離れたところから聞こえるクラスメートの会話は、どこか遠い世界の御伽噺のように現実味を帯びずにわたしの鼓膜を揺らした。

 テストの成績があまり良くなかったせいで、補習授業を受けることになってしまった。
夏休みだというのに制服を着て正門をくぐると、体育館からは覇気のある掛け声や床の鳴る音が聞こえてくる。 
 あの会話を聞いた翌日、朝一番のホームルームで担任の先生から「木吉が入院した」と聞かされた。
直後の動揺とざわめきが教室全体に広がって、足元から気持ちの悪さが駆け上ってきた。それは体中に巻きついて奇妙な浮遊感を齎し、すべてが夢の中の出来事で目が覚めたら木吉はいつものように朗らかな顔をして教室に顔を出すのだと信じていた。
 体育館ではバスケ部がいつものように練習している。木吉もその中にいるに決まってる。
 それを確かめるのが怖くて体育館には近寄ることができない。足早に正門から生徒玄関までの道を駆け抜けると、纏わりついてくる湿気と熱気で汗が滲んできた。
 午前中いっぱいで補習は終わり、帰ろうと駅までの道を歩いている途中、スカートのポケットでスマホが振動していることに気付いた。
何気なく取り出し表示を確認して、ぎくりと心臓が冷えた。
 木吉鉄平、と表示されている。近くにあった薬局の軒下で立ち止まり、こめかみを流れていく汗を拭ってから電話に出た。
「もしもし」
「おー、舞花!ちょっと久しぶりだな」
 いつもと変わらない声。ふいに泣いてしまいそうになって言葉を返せずに黙り込んでしまうと、その不自然さが際立ってしまいそうで、思わず電話を切ってしまった。
「おいおい、いたずら電話じゃないぞ」
 すぐさままた掛かってきた電話に、息を整えてから出る。油断していたら勝手に声が涙に滲んでしまいそうだった。
「何か用?」
「いや、用ってほどのことじゃないけどな」
「じゃあ、切るね」
「いやいや、大事な用があるんだ。切らないでくれよ」
 大事な用という言葉に不吉な色しか見つけられない。木吉の入院は1年以上掛かるかもしれない、と担任の先生の声が頭の中でリピートされている。これ以上何か大事が起こったら、この世の全てを怨んでしまいそうだ。
「どら焼き買ってきてくれ」

 通り掛ったコンビニでどら焼きとついでに牛乳プリンを手にとって会計を済ませ、電話で教えられた病院にスマホで調べながら向かった。
 怪我がどういったものなのか詳しくは聞かされていない。
とりあえず牛乳が身体に良さそうだという安直な理由から牛乳プリンを選んだ。蓋に描かれているイラストは数種類あったけれど、どれもにっこりと笑顔を向けていた。彼が少しでも元気になればと祈るように、一番輝くような笑顔を見せているものを選んだ。
 真っ白い壁や床やドアに、薬品のにおいが抜けていく。
同じように真っ白のエレベーターの扉の前で上にあがるために待っていると、逃げ出してしまいたくなってきた。
 このまましらばっくれて帰ってしまおうか。どら焼きなんてどうしても食べなければならないものじゃないし、わたしが届ける必要なんてどこにもない。
 帰りたい。
 現実を目の当たりにしてしまうことに怯えていた。御伽噺でも夢の中の出来事でもなく、木吉が怪我をして入院しているのは事実なのだと突き放すような白が伝えていた。
 木吉の顔を見てわたしが何か気の効いた言葉を投げられるわけじゃない。わたしの顔を見て木吉が元気になれるわけじゃない。それなのにどうして今わたしはここにいるのだろうか。
 マイナスなことばかりが頭を過り、一歩後ずさったときちょうどエレベーターの扉が開いた。思わず弾かれたようにそれに乗ってしまい、指定された3Fに向かうボタンを押した。
「わざわざ悪かったな」
 わたしの顔を見て、真っ白いベッドに半身を預けたまま木吉は教室で見たのと何も変わらない笑顔を浮かべた。
「これ、どら焼き。あとプリンも買っておいたから後で食べて」
 そう言ってベッドの横にある小さな冷蔵庫を開けると、そこにはゼリーやプリンやカットフルーツがたくさん入っていた。
「……ごめん、食べきれないよね。プリンは持って帰る」
「え?いや、食べられるぞ。食事制限あるわけじゃないんだし」
「でも……」
「それ好きなんだ、入れといてくれ。ありがとな」
 穏やかなその声に胸がぎゅっと締め付けられた。
痛いに決まってる。悔しくて遣り切れなくてもどかしいに決まってる。それなのに彼の仮面は剥がれない。
 涙が零れてしまいそうで、冷蔵庫にプリンを入れる仕草に紛れて指先で目元を擦った。
「こういうのは彼女に頼みなよね、わたしがいて誤解でもされたら困るでしょ」
「リコのことか?」
「他に誰がいるの?」
「いや、別れたよ。随分前に」
 軽率に思いついたことを言ってしまったと後悔した。繋ぐ言葉を見つけられずに、木吉を見ると相変わらず穏やかな顔をしている。
わたしには何も見せはしない。その焦燥も不安も苛立ちも悲壮も。いつも彼は見慣れた笑顔を貼り付けてわたしの名前を呼ぶ。
「不思議と今のほうがしっくりくるんだよ。カントクと選手として、同じチームメイトとして、そうやって過ごすほうがよかったんだろうな」
「……そう、わたしにはよくわかんないけど」
「舞花、彼氏いないもんな」
「うるさい、モテないの!悪い?」
 木吉は声を上げて笑った。わたしは不本意だったけれど、それで少し救われた気がした。
木吉が笑ってくれたそれだけで、ここに来たわたしに価値があったのだと慰められているようだった。
「舞花はモテるよ。紹介して欲しいって、オレ何度か言われたことある」
「それ初耳だけど」
「今、初めて言ったからなぁ」
 のびやかな低い声が薬品のにおいの不自然さを薙ぎ払う。少し呼吸が楽になったようだった。
「そういうことは早く言ってよね」
「あれ?紹介するべきだったか?」
「え?いや、うーん、……やっぱりいい。好きな人には振られてるし」
「そうなのか?オレと一緒だな」
 一緒じゃないよ。相田さんの中に木吉は確かにいたと思う。いや、今でも大きな存在としているはずだ。わたしと木吉は違う。
「そろそろ帰るね」
「おう、また暇なときに顔出してくれよ」
「……うん、またね」
 そう告げてわたしはもうここには二度と来ないと決めていた。
 来なければよかった。変わらぬ笑顔はわたしを拒んでいるみたいだ。きっぱりと引導を渡された心地だった。完全に木吉に振られたのだ、と。
 パイプ椅子から立ち上がって鞄を肩に提げると、伸びてきた大きな手がわたしの手首を掴んでいた。
 病院内は体温調節が難しくならないように適温が保たれている。エアコンが効き過ぎていて寒いわけでは決してない。
 それなのに触れた木吉の手は冷たかった。
冷やりとするその接触は突然過ぎて、何も言葉が出てこない。
 唇を噛み締めて顔を上げると、彼の広い肩に額がぶつかった。木吉の表情は見えない。
後頭部に当てられた手の、指先が震えていた。わたしは木吉にしがみ付くように腕を背中に回して、彼の震えを全身で受け止めていた。

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