鉄くんの横顔を見た。頬杖をついて、ペンを動かす指は相変わらず綺麗だった。
 3年生が自由登校になると、校舎の中がすこし静かで寂しく感じる。部活が早めに終わり、課題として出されていたプリントがバッグの中に見当たらず教室へ戻ると、ほんのわずかな好奇心がうずいた。
来年になれば、堂々と歩ける3年の教室が並ぶ廊下を、今歩いてみたかった。鉄くんが見ている景色が、変わってしまう前に。
 誰もいないと思っていた教室に、鉄くんの横顔を見つけた。「鉄くん」と声を掛けると、彼は顔を上げてわたしを見た。手招きされるままに教室に足を踏み入れ、鉄くんの隣の席に座る。
 背筋を伸ばして真っすぐ前を見ると、隣で鉄くんはテキストに向き合い、頬杖をついたままペンをくるくると指の間で回した。
 同じ教室で、隣の席に座って授業を受ける。そんな毎日はわたしには訪れてはくれなかったけれど、今これほどに新鮮に映るせかいは、わたしと鉄くんの一学年の差の中にあって見えるせかいだった。

「鉄くん、もうすぐ卒業だね」
「なんだよ、茉莉花。寂しくなってんのか?」
「すこしだけ」
「へえ」
「うそ。ほんとはすっごく寂しいよ」

 不自然な沈黙が出来て、それはくしゃみの間ではなかった。
 空が霞むように白くなっていく。
日が暮れる前に家に帰らないと。新キャプテンの虎ちゃんも、鉄くんと同じようにわたしに注意をする。

「それ、大学の課題?」
「ああ。家にいるより学校のほうが捗るからな。この時期、3年の教室は自習室として開放されてんだよ」
「そうなんだ!知らなかった」
「ま、使ってる奴はあんまいねえけど」
「静かだね」
「集中できてちょうどいいかもな」
「あ、ごめん。わたし勉強の邪魔してたね。そろそろ帰るね」

 茉莉花、と呼ぶ鉄くんの声。真っ直ぐな視線。鉄くんの真剣な顔にドキリとした一瞬を、後ろにあっという間に追いやるように、いつもの余裕の表情でニッと笑って、「一緒に帰るか」と言った。

 川沿いの道は、風がさらに冷たく吹き荒ぶ。首を竦め、ぐるぐる巻きにしたマフラーでなるべく風を遮り、鉄くんの背中を見ながら歩く。
 まだ鉄くんがこの街に引っ越してきたばかりの頃は、わたしが彼の手を引いていた。目線はさほど変わらなかった。やわらかい手の平の感触は、もう遠い記憶だ。
 橋の上を電車が通過していく音に振り返る。菫色の空が、深い闇に染まっていく。思わず立ち止まってしまい、そうやってぼんやりしていていつもみんなとはぐれてしまうことを思い出して、慌てて前を向いた。
 視線の先に誰もいない光景を覚悟していたのは、過去の経験からだった。けれど、鉄くんは10メートルほど先で、同じように立ち止まってくれていた。
 ショッピングモールで、水族館で、修学旅行の班別行動で、振り返ったときに見知った背中を見つけられず、幾度も襲い掛かってきた不安は、鉄くんと一緒にいるときは常に姿を消していた。それが自分にだけ向けられる特別な優しさではないことを知っている。
知っているからこそ、この人を好きになった自分が誇らしく、褒めてあげたくなった。
 こんなふうに二人で過ごせるのは最後になるかもしれない、と考えるとすこし欲張りになった。

「鉄くん」

 駆け寄って、手を差し出す。

「最後に思い出がほしい」
「最後?」
「手、繋いでください。思い出に」
「思い出ねえ」

 鉄くんは首を捻って、うーん、と唸る。差し出した手が落ち着く場所を見つけられずに、居た堪れなくなっておずおずと引っ込めようとしたとき、気安い様子で鉄くんはあっさりわたしの手を握ってくれた。
 大きくて硬い手の平に、優しくわたしの指が沈む。

「ありがとう」
「思い出とか大袈裟なんだよ」
「じゃあまた繋いでくれる?」

 鉄くんは押し黙って、歩くのを止めない。嘘や気休めを言われてもわたしが救われないことを知っているからだ。
 前を向いたまま、夜に浸食される前の薄暗い帰り道を、頼りがいのある背中で歩いていく鉄くんを、わたしはずっと追いかけてきたように思う。鉄くんの背中はどんどん遠くなっていって、ああ、だめだ、もう追いかけてはいけないのだと知ると、胸に大きな穴が開いてしまったかのようにすうっと冷えた。

「……なんて冗談、」
「いいよ」

 唐突に落とされた言葉は、わたしの都合の良い幻聴なのだと思った。
 ひときわ強い風がびゅうと吹いて、繋がれた手の間をすり抜けていった。子供の頃と同じように手を繋いでも、似ている景色を見つめても、あの頃に戻れるはずはなかった。
 鉄くんが立ち止まってわたしを振り返ると、そこにすねたような表情を見つけた。
 
「おい、ノーリアクションはやめてくれ」
「……え?え、なにが?」
「聞き返すのもヤメテ」

「いい、って言っただろ、俺」と隣に並んだわたしの方を見ずに、明後日の方角に視線を飛ばしたまま言う。
それは幻聴ではなく、はっきり現実の声としてわたしに届いた。
 
「また手、繋いでくれるってこと?」
「ソウデスケド」
「な、なんで?」
「なんでって。断る理由が見つかんねーんだけど」
「だって、わたし、……振られてるのに」
「あ?なにソレ?そもそもお前に何か言われた覚えもないんですけど」
「言っ、……てはないけど。知ってたんでしょ」

 鉄くんがまっすぐ視線をぶつけてきて、戸惑う。

「知ってた」

 鉄くんの手を握っていた力が緩む。けれど、ほどけはしなかった。鉄くんが繋ぎとめてくれていたからだった。

「……知ってたんだ」
「お前、わかりやすいじゃん」
「知ってて冷たくしたのは、振られたってことじゃないの?」
「キャプテンとマネージャーの適切な距離を取ろうとしたってコトだろ」
「キャプテンとマネージャーは手繋いだりしないと思う」
「あ、俺もうバレー部引退したんですよねェ」

 泥だらけになるまで河原でボールを追いかけていた頃、わたしはたびたび寂しさを感じていた。
 きっと、わたしはふたりに追いつけなくなる。同じ空気を味わって、一緒に歩くことができなくなる。
それは遠い未来の話ではないと、幼いながらにわかっていた。弁えて、受け入れようとしていた。
往生際悪く痛む胸を叱りつけて、離れなければ、と決心して最後の余韻を反芻する前に、離れたくなくなってしまった。
 ぐっと力強く手を引かれ、鉄くんの切れ長の瞳がすぐ近くにあった。ああ、ぶつかる、と思ったときは、唇が知らない熱を覚えていた。





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