髪がずいぶん伸びた。鉄くんは長い髪が好みなのだと、夜久さんに聞いてから、短く切れずにいた。
少しでも望みがありますようにと願わずにいられなかった。

「あれ?ずいぶん短くしたね」
「うん」
「高校入ってからずっと長かったのに」
「たまには短いのもいいかなーって」
「まあ明らかに距離取られてるしね」
「……研ちゃん、容赦ない」
「おれにはカンケーないけど。クロがあんなにわかりやすく態度に出すなんて珍しいから目につく」

 鉄くんの家の洗剤のにおいがすきだった。夕暮れまで遊んで、泥だらけになってしまった白いTシャツに、真っ白い輝きを取り戻してくれた洗剤のにおい。
 鉄くんは昔からよく家のお手伝いをしていて、洗濯物を畳むのがとても上手だった。隣で鉄くんの真似をして、洗濯物を膝に乗せるたびに香る洗剤のにおいを、今でもずっと覚えている。
 懐かしくて、くすぐったい。温かくて、すこし寂しい。小さな背中を丸めて、手際よく畳まれるタオルやシャツは、自分の手元にある歪なそれらと違う形をしていた。

「あー、悪い悪い。ちょっとフザケマシタ」

 そう言って軽い調子で離れていく鉄くんの背中はどこか遠くに行ってしまったみたいだった。
 ひとりで動揺していた自分がばかみたいで、取り残されてしまった心を持て余した。
それでも、「鉄くん、ふざけないでよ」と調子を合わせて笑っている自分がいて、余計に虚しくなってかなしかった。
あの日以来、ずっと鉄くんに避けられている。

 体育館の裏庭へと続く扉が開かれている。部活が始まった時刻から降り出した雨は、次第に雨足を強くしていき、屋根が付いているとはいえ、斜めに降る雨が体育館の床を濡らしてしまう前に閉めようと、扉に手を掛けた。
 湿気のせいか、年季のせいか、建て付けの悪い扉と格闘していると、虎ちゃんが気づいて手伝ってくれた。
 虎ちゃんよりもずっと近い距離に鉄くんがいたことを知っていた。もう極力関わりたくない、と言いたげな背中が目に映って、ほんのすこし下を向く。

 湿気を含む温い風は、駅のホームを吹き抜け、膝のあたりをくすぐっていった。滑り込んできた車両は制服姿の乗客が多く、混んでいる。
バレー部の買い出しのために訪れたスポーツ用品店で、おまけでもらったイチゴの飴を舌の上で転がしながら、電車に揺られる。
 扉のすぐ傍の手すりに掴まりながら、ぼんやりと外を眺めていると橋を電車が渡っていく。河原沿いに真っ直ぐ伸びる道は、思い出の景色と重なる。
 音駒高校近くの停車駅でまたどっと人が増えた。景色はスーツの背中に埋もれ、バッグと買い込んだ荷物を抱えて俯く。
視線の先に大きなスニーカーが映って、それは鉄くんが好んでよく履いているメーカーのものだった。カラーリングも同じだ。黒地に赤のラインが入っている。視線をすこし上にあげると、骨の形がうっすら浮いた手の甲から、すらっと伸びる指が長くて綺麗だった。

「……鉄くん」
「やっと気づいたのかよ。ぼんやりしてんなあ」

 そう言って鉄くんはわたしの抱えている荷物を持ってくれた。
 もう一緒に帰ってはくれなくなったけれど、鉄くんは以前ほど明らかに距離を取らずにいてくれる。
『わかりやすい。クロも気付いてるかも』
研ちゃんの言葉が、頭の中を巡る。明らかな拒絶は、わたしを諦めさせるサインだった。

「声、掛けてくれたらよかったのに」
「いやー、いつ気づいてくれるかとワクワクしながら待ってたんデスけどね。お前、全然顔上げねえから参ったわ」

 混んでいる電車の中で感じる息苦しさがふっと和らぐ。
 電車が揺れて距離が縮まると、鉄くんは真っ直ぐ前を向いた。窓の外の景色を見つめるように。
 いつもそうだ、と思う。鉄くんがふっと遠くへ視線を飛ばしてしまうのは、決まって流れる空気が幼い頃からの気安さを外れてしまいそうになったときだった。
 手摺りに掴まっていた手の力がふいに緩むと、足元がふらついて、隣に立っていたスーツの男の人にぶつかってしまいそうになった。けれど、伸びてきた鉄くんの手がわたしの腕を支えてくれた。力強くて安心する手。鉄くんの家の洗剤のにおいがした。その手はすぐに離れていった。
 わたしはもう距離を間違えない。

「ありがとうございます。キャプテン」
「おー」

 好きな人に好きになってもらえる人が羨ましかった。車内で仲良さそうにしている制服姿のカップルは、自分とは違う世界を生きている人たちだった。





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