「茉莉花、俺もうあがるからちょっと待ってろ」
すこし低めの声。顔を上げたときに視線が合わない。
鉄くんは少ない言葉だけ放り投げると返事を待たずに行ってしまった。
今夜は月の光が強い。
初夏はまだ昼と夜の気温差が激しく、念のためにと制服の上にカーディガンを羽織ってきてよかった、と安堵する。
鉄くんはYシャツ一枚だけで、長い袖を肘の上まで捲くっていて、腕が寒そうだった。
あ、と呟き生徒玄関を出る前に着信に気付いた鉄くんは、「悪い、すぐ戻る」と一言残し、スマホを耳に当てて校舎の中へ戻ってしまった。
入口近くで一人で待っていると、時間がやけに長く感じる。鉄くんはずいぶんわたしと離れた距離まで歩いて行ってしまった。
わたしの知らない鉄くんの世界に、わたしは決して踏み込めない。向こう側には行けない。そんな度胸もないくせに、嫉妬だけは一人前なのが厄介だった。
足を一歩前に出すと、二歩目三歩目はそれよりも軽い。背中がじりじりとやける感覚。
知らなければ傷つかなくて済む、のだと思い込む。
踏み込まなければ、知らないままでいられる。
バッグの内ポケットには、二つ折りにした紙が一枚入っている。綺麗な文字、誠実さも感じる。連絡をするべきなんだとわかっているけれど足踏みばかりしていて、望みのない相手への想いを断ち切れずにいる。
後ろから足音が聞こえて、期待した。足が遅くなる。
「お前は俺を困らせるのが相当楽しいのかね〜」
「……ごめんなさい」
それほどの距離を走ったわけでもないのに、鉄くんは珍しく息を切らしていた。
「鉄くん、息も絶え絶え」
「うるせえ。焦りが乗っかると、ペース狂って呼吸が整わなくなるんですう」
鉄くんがわたしを妹のようにしか見ていなくても、恋愛の好きにはなれなくても、こうやって心配して駆けつけてくれるぐらいの距離にいられる幸せを、わたしはどうして素直に受け止めることができないのだろう。
知らなくてよかった。好きにならなくてよかった。
鉄くんはわたしが惚れ込んでしまうほど素敵になんてならなくてよかった。
かっこ悪いほうがよかった。出会わなくてよかった。研ちゃんとふたりで家に閉じこもって、テレビゲームに熱中していればそれでよかったんだ。
「鉄くん」
「なんだよ」
熱気に包まれた会場で割れんばかりの歓声を浴びているバレー部のみんなの顔を、わたしは容易に想像できるほど、彼らの勝利を信じている。
鉄くんの半歩後ろを歩いていると、彼の背中を追い掛けていられる。けれど、それも高校生でおしまいだ。
壊したくない。大切にしたい。
「な、……んでもない、です。キャプテン」
伸びてきた長い腕の、いつの間にか見つけてしまうようになった逞しさに心臓が跳ねても、動揺が決して表に出ないように。
ネット際で何度もピンチを救ってきた大きな掌が、わたしの頭を優しく撫でた。
腕の中にすっぽり入ってしまえるほどの身長差に、跳ねる心臓を落ち着かせようと胸の前で両手を握り締めていると、鉄くんの腕が背中に回って、耳元、低い声でわたしの名前を呼んだ。
今までわたしの名前を呼ぶときに、そんなふうに熱を持たせたことなんて一度もなかったくせに。