きっかけは背中に触れた大きな手。
男子バレー部のマネージャーをやろうと思ったのは、鉄くんに誘われたからだった。
躊躇して体育館になかなか入ることのできなかったわたしの背中に、力強くて安心する手が、今にも倒れてしまいそうなほどの緊張で足が震えていたわたしを支えるようにして添えられていた。
もうこわいものは何もないと思えるような手だった。足の震えは止まっていた。
幼い頃、握ったときに柔らかかった手は、いつの間にかごつごつした男の人の手になっていた。
その変化を近くで見てきたはずだったのに、ふいに意識してしまうともうだめだった。意識せずにいられたわたしに戻ることが出来ない。
鉄くんのことが好きなんだ、と一度気付いてしまうと気持ちは加速していく一方で、自分の気持ちのはずなのに、それを止めることはわたしの意志ではできないのだった。
「茉莉花、聞いてんのかよ」
視線のすこし上に黄金の鶏冠が輝くように乗っている。
否、染めた髪の毛を毎日きちっとセットしている虎ちゃんだ。
でも、その髪型、女の子受けは悪いと思う……。
「う、うん。聞いてたよ」
「ホントかよ。じゃあ、いいんだな?」
「え?い、いいかどうかは、もうちょっとじっくり考えたい」
「あー、まあ、そりゃあそうだよな。お前話したことないヤツだし。いきなり紹介だのなんだの言われても困るよな」
「……紹介って。え?それなんの話?」
「やっぱ聞いてなかったんじゃねーか!」
翌日、体育館に足を踏み入れると、鉄くんが意味ありげにわたしを見てにやにやしていた。
隣にいた虎ちゃんのわき腹を抓ると、悲鳴を上げて大袈裟に痛がった。すぐ傍にいた研ちゃんが「うるさい」と顔をしかめて呟く。
「おしゃべり。キャプテンに言うことないのに」
「いや、悪い。たまたまそういう話になって、ついぽろっと」
”そういう話”になって、鉄くんは何を話したんだろう。
わたしが高校に入学して1ヶ月も経たない頃、鉄くんが3年のとても美人な先輩と付き合っていることを知った。
「茉莉花」
「うるさい、放っておいて……くださいっ」
「いや、まだ何にも言ってねえけど」
「顔がもうふざけてる。絶対からかう気だから」
「そんなことありませーん。俺は可愛い妹分に幸せになってほしいだけデース」
鉄朗、と先輩が鉄くんを呼ぶとき、どこか気恥ずかしさを隠しきれない少年のような顔をして、面倒そうなフェイクをひとつ入れてから彼女に駆け寄る鉄くんは、わたしの知らないひとだった。わたしには決して見せない顔だった。
妹分、とオウムのように返したわたしの顔を見て、鉄くんは気まずそうな表情をほんの一瞬残した。
コンビニの前に並んでいるベンチの一番端に座る。バレー部の雰囲気は決して悪いわけではないし、こういうときの居心地の悪さは、わたしが勝手に感じているだけのものだ。
中学で女子バレー部に所属していた頃には感じていなかった疎外感。
男子と女子、選手とマネージャー、その壁をときおり勝手に感じて、勝手にいじけてしまう。
山本くんとは反りが合わない、と文句を言っていた研ちゃんもいつの間にか馴染んでいて、余計にひとりぼっちだと思ってしまう。
わたしの気持ちをわかってくれる人は、この部にはいないのだ。
足元のコンクリートを踵でとんとんと叩いていると、ドカ、と鉄くんが乱暴に隣へ座った。
「なにしょぼくれてんだよ、木兎じゃあるまいし」
「しょぼくれてない、です」
「お、なんだ茉莉花。しょぼくれてんのか?アイス半分やるから元気出しな」
夜久さんがわたしに視線を向けて、二つに分かれるソーダのアイスの半分を差し出してくれる。手を伸ばしたら研ちゃんも虎ちゃんも一緒に手を伸ばしていて、いつの間にかわたしはその輪の中に入っていた。
鉄くんはやっぱりキャプテンで、バレー部のことをよく見ていて、頼もしい先輩だった。
水色のアイスにかじりつきながら、こっそり鉄くんの横顔を盗み見ようとしたら、目が合って、不自然な逸らし方をしてしまった。