「茉莉花ってクロのこと好きなの?」

 首元で結ばれたネクタイの結び目は緩く、面倒そうな顔をして適当に結んでいる姿が目に浮かぶように形は歪だった。
 住宅街に並ぶ壁の一角のでこぼこした白には蔦が巻きつくように伸びている。それら目に映るものへと視線を忙しなく動かし、着地すべきその一点にはいつまでも辿り着けずに遠回りしている。

「目が泳いでる」

 コートの上で静かに光らせている少し釣り目のその瞳と、視線を合わせてしまったら心の内が読まれてしまいそうだった。
 つい視線が下へ向くと、研ちゃんのスニーカーの紐が片方ほどけていることに気が付いた。わたしの視線を追って彼もそれに気付くと、背負っていたリュックを下ろしてわたしを見た。

「茉莉花、重たいからちょっと持ってて。靴紐結びたい」

 電信柱の影で研ちゃんのリュックを抱え、しゃがみこんでいる彼の、黒くなっている根元の髪を見ながら、「わたし、鉄くんが好き」と観念して白状すると、「うん、だろうね」と拍子抜けするほど普段通りの声が返ってきた。

「……わたしって、もしかしてわかりやすい?」
「わかりやすい。クロも気付いてるかも」
「マネージャー、クビ?」

 言った途端に、それが現実として降りかかってきたかのように、目の前が少し暗くなったように感じる。
 研ちゃんは、勝手に悲壮感を漂わせているわたしを見て、あからさまに溜め息を吐いた。

「メンドクサイ」
「う、……ごめん」
「まあ、クビにはならないんじゃないの?だいたいマネは茉莉花しかいないのに、急に辞められたらクロも困るし、茉莉花が動揺して変な空気になるようならクロが上手いことフォローするでしょ」

 研ちゃんは幼稚園からの長い付き合いだけれど、だからといって同情も贔屓もしてはくれない。ただ現実を静かに受け止めている熱のない声が、このときほど安心した記憶はなかった。

「でも鉄くんがわたしのこと気持ち悪いって思ってたら、どうしよう」
「知らないけど、好きって気持ち悪いものなの?」
「研ちゃんは、わたしが研ちゃんのこと好きだって言ったらどう思う?」
「キモチワルイ」

 激しい動揺から落ち着き、油断していたところに切れ味の鋭いまっすぐな本音をぶつけ、靴紐を結び終えて立ち上がった研ちゃんは、わたしが抱えていたリュックを引き取った。

「自分で聞いておいてなにその顔?」
「……研ちゃんって容赦ないよね」
「下手に慰められるよりよっぽどマシだと思うけど」
「鉄くんもわたしのこと気持ち悪いって思ってるんだ……」
「知らないよ。本人に聞いたら?」

 つれない言葉と興味もなさそうな瞳を残して、研ちゃんはすたすたと歩き始めてしまった。その少し丸まっている背中を追い掛けると、ふいに幼い頃の記憶が眼裏に浮かんできてしまう。同じような毎日を繰り返していたはずが、少しずつ変わっていったことを時折強く意識する。


 体育館の上でいくつもの大きなライトが目映い光を放ち、辺りを昼間のように照らしているのとは対照的に、電気のスイッチを切ったままの用具室は、零れた光が真っ黒い闇にわずかに差し込むのみで薄暗い。
 ボールの入ったカゴをがらがらと押して用具室のいつもの位置に移動させると、「茉莉花」と響く声は、わたしのただ振り返るという動作を不自然なものにしてしまった。

「これも頼むわ」

 緩やかな曲線を描いて手元に飛んできたバレーボールは、受け取り易い絶妙な位置に放り込まれたはずなのに掴み損ね、わたしの足元で跳ねると、後ろに転がっていった。

「おいおい、それぐらいキャッチできないなんて情けないぞー」
「…………」
「油断してるとどこからボールが飛んでくるかわかんないんだからな。常に気を張るべし」
「…………」

 用具室に入ると、体育館の中の物音は一段階小さくなり、扉が閉まっているわけでもないのに、ふたりきりという状況を意識してしまう。そのせいで上手く言葉を返せなかった。
 マットにぶつかってこちらへ戻ってきたボールを拾い上げてカゴに放り込むと、鉄くんが明るい昼と薄暗い夜の境目に立っていた。
片手を腰に当てて、ふんぞり返った立ち方だ。

「キャプテンを無視するとはいい度胸じゃねえか」
「……すみません、キャプテン」

 身体が緊張感を保ったまま、他人の意思を宿しているようなぎこちない動きを繰り返す。
 背の高い鉄くんに見下ろされていると、広い肩幅や逞しい胸板が目に入ってしまい、余計に心臓に悪い。
横をすり抜けようとすると、彼の開かれた手の平がわたしの頭を掴んでいた。

「おーい、なぁに逃げようとしてんのかなァ?」
「に、逃げようとしたわけじゃ……」
「研磨、先に帰っちまったぞ。残念だったな、ぼっち茉莉花」
「いいの、ひとりで帰るから」
「よくねェの。俺までぼっちになっちまうだろーが」

 鉄くんが着替えて鍵を職員室に返しに行っている間、生徒玄関の入口の横壁に預けていた背中を浮かして、我慢出来ずに一歩足を踏み出すと止まらなくなってしまった。
 好き避けってやつだよね、それ。
 研ちゃんが挙動不審なわたしを見て冷静に放った一言を受け止めたところで、態度を改められる器用さなどない。
こうやって変な態度ばかりを取ってしまっては、いずれ鉄くんに嫌われてしまうかもしれない。
 好きという感情は面倒で気恥ずかしくて煩わしいのに、毎日を勝手に彩ってしまうから厄介だ。
 後ろから響く足音を、逃れたいと思っているはずなのに、やっぱり追いかけてくれて嬉しいと思ってしまう矛盾がますますわたしの態度を不審なものにさせてしまう。

「茉莉花ちゃーん、一緒に帰りましょうねって言ったデショ?」
「あ……の、ごめんなさい。鉄くん、怒ってる?」
「怒ってるわ、ボケ。つーか、このへん変質者出たって聞いたぞ。あんまひとりでふらふらすんなよ」

 そう言って鉄くんが隣に並んだ途端に、日の沈んだ後のひとりの帰り道があっけなく安全なものへと変わってしまった。
 高い身長、頼りになる背中、長い足はわたしを置いていくことなく制限された速度で一歩一歩を刻んでいる。
 のんびりと交わしていた会話がふいに途切れて、緊張を覚えたわたしの横で、鉄くんは豪快なくしゃみをひとつした。
ただのくしゃみの間だったのに、変に意識してしまったことが恥ずかしくて、わざと歩く速度を遅くして鉄くんの斜め後ろを歩いた。
 けれど歩幅を狭くして足をゆっくり動かしても、いつの間にか鉄くんが隣を歩いている。

「鉄くん、歩くの遅くない?」
「あー?そうか?」

 長い足を持て余しているような歩き方、そんな優しさは、いつ彼に染み付いたのだろうか。
 男の子同士で騒いでいるのが一番楽しそうな顔をして、ちゃんと女の子の扱いをわかっているその余裕は、どこかむず痒いのにすこし寂しい。その優しさを受け取った女の子はきっとみんな鉄くんのことを好きになってしまう。

「うー、さぶ!夜はまだ冷えるな」
「おじいちゃんみたい」
「子どもは体温高くて羨ましいわ」

 そう言って鉄くんは気軽にわたしの手を取った。指同士が絡む握り方をして、わたしの目線の高さまで上げた。大きな手はごつごつしていて、すこしカサついていた。爪は短く切り揃えられていて、指は長くて綺麗だ。

「鉄くんの手、綺麗だね」
「あ?なにお前、手フェチ?」
「えっ!?いや、わかんない、けど……」

 鉄くんの手だからいいなって思ったのかもしれない。
 思わずぱっと手を離すと、まだ手の中に鉄くんの体温が残っていて、その余韻に浸るだけの幸せがあれば十分なんだと言い聞かせる。欲張ってはいけない、と。

「茉莉花」

 低い声がすぐ傍で聞こえる。それだけでわたしの身体の奥が甘く疼いていることなど気付いていない様子で、鉄くんはわたしの肩に力強い腕を回して胸元に引き寄せてしまった。
突然の接近に息を吸うのも忘れてしまうほどの緊張が走ったというのに、鉄くんは「見ろよ、これ。立派な蜘蛛の巣だぞ」と頭の上のほうを見たまま暢気に言った。
 塀の隙間から顔を出している枝と電柱の間に、きれいに編みこまれた蜘蛛の巣が張られている。それはわたしの頭の上にあった。

「ま、お前の身長だったら当たる心配ない高さだったな」

 肩を掴んでいた手は制服の上からだったのに、離された後もまだじんわり体温が伝わってくるような感触を残してしまった。





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