緑色のフェンスの向こう側から、太陽の光を受けて輝く水の流れは曲線を描き、コンクリートの上で弾ける。

「お、わりい!水かかんなかったか?」

 フェンスの上から身軽な様子で顔を出す椎名は、日に焼けた肌を気にする様子もなく無邪気に笑っている。

「何やってるの?水遊び」
「遊んでねえよ!プール掃除に決まってんだろ。来週から学校のプールも開放されるんだぜ。待ちに待った夏がやってきたー!って感じだな」

 椎名は夏がよく似合う。真っ白いYシャツ、黒のスラックスを膝まで捲り、照りつける太陽の下で水と戯れている椎名を一番、らしいと感じる。
そのせいで、彼が学ランを着こんでマフラーを巻いている姿を見るのはどことなく寂しい。
 夏の終わりをうまく受け入れられなくなってしまったのはきっと、椎名のせいだ。だからわたしは夏をあまり好きになれない。

「わたし、夏、苦手」
「お前、白すぎねえ?もうちょっと健康的なほうが俺の好みだな!っつーことで、プール掃除手伝ってくれ!」
「どういうことなのかさっぱりわからないけど。そもそもなんで椎名の好みに合わせないといけないわけ?他の部員は?」
「1、2年はまだ授業あって来れないんだよ。その間に、部長の俺があらかた終わらせてやろうって思ってたんだけど、やっぱり一人じゃキツくてさあ。な、大変そうだろ?手伝ってやりたいよな?」
「……べつに」
「手伝ってくれたら、アイス奢ってやる!」
「いらない。帰る」
「じゃあ!手伝ってくれたらなんでも言うこと聞いてやる!ってのはどうだ?」

 背中を向けたところに椎名の威勢ばかりしか乗っていない力のこもった声が届いて、振り返ると、明らかに後悔の色が隠せない表情をしている。
間抜けな男だ。考えていることはすぐ顔に出て、素直で、一直線なところは、でも案外嫌いじゃない。

「なんでも?」
「い、いやあ、今のはだな〜……」
「なんでも言うこと聞くって確かに言ったよね?男に二言はないよね?」
「お、……おう!あったりまえだろ!」
「じゃあ、のった!手伝ってあげる」

 容赦なく照りつける太陽の熱で、プールサイドは裸足で踏み入れるには熱くなりすぎていた。
椎名は自分の履いていたビーチサンダルをわたしに差し出すと、ホースで自分の歩く先を濡らしながら進む。鼻歌を歌いながら。
 自分の足よりも一回り大きいビーチサンダルを持て余してしまうと、椎名と自分の違いがあからさま過ぎて、変に意識してしまいそうだった。
 彼に倣ってブラシでがしがしプールの底を磨いていると、汗が首筋やこめかみを流れていく。椎名は部室から麦藁帽子を持ってくると、被せてくれた。

「これ、椎名の?」
「おう!毎年恒例のことだからな。いろいろ準備がいいんだよ、俺は。気が利くだろ?」
「自分で言わなければよかったのにね」
「うっせえ!誰も褒めてくれないんだよ!しょうがねえだろ」
「あー偉い偉い!椎名ってば気が利く」
「まーな!」
「お願いごと何にしようかなあ。椎名は器が大きいからなんでも叶えてくれるよね?」
「うっ……!」

 お調子者の椎名と一緒にいると、受験勉強で鬱屈とした気持ちが勝手に晴れてしまう。
頑固な汚れを必死に磨いて綺麗にすると、清々しい達成感に包まれて、気付くとつい夢中になっていた。
 
「椎名、喉かわいた」
「お、じゃあ、願い事はそれにするか」
「自分で買ってくるからいい。ついでに椎名の分も買ってきてあげる」
「なんだよ、遠慮すんなよ。俺がお前の願いを叶えてやるぜ」

 背中に掛かる声を無視して、バッグからお財布を出すと、一番近い自動販売機まで向かう。自然と進む足は速くなり、気付くと駆け出していた。
夏の空気の圧倒的な熱が全身を包んで、また汗を噴き出させてしまうのに、それがどこか心地よく感じる。
 自分の部屋でテキストと向き合って眉間に皺を寄せているときの汗は、ひどい不快感を伴っているというのに。
 ペットボトルを2本抱えてプールに戻ると、椎名は真剣な顔をしてブラシを動かしていた。
プールで泳ぐ彼に、ひどく胸が騒いだことを思い出す。いつもみたいにおちゃらけて、悪ふざけばかりしている子どもの顔した椎名でいてよ、と願ってしまう。独り善がりな願いは、夏の眩しさには不釣り合いだ。
 誰も椎名のこといいなって思わなければいいのに。

「お、なんだよ、戻ってたなら声掛けてくれよ」
「うん。椎名があんまりかっこいいから見惚れてた」
「は、はあ!?おまえっ、何言ってんだよ!」

 動揺して真っ赤になっている椎名は、一段と逞しくなった身体をTシャツで包んで、短い髪を温い風に揺らしている。
こっちへ向かってくる数人の話し声と足音。麦藁帽子とビーチサンダルとスポーツドリンクを飛び込み台の上に置いて、タオルで濡れた足を拭いた。

「他の部員も来たみたいだし、わたし帰るね。ジュースは奢ってあげる。頑張ってる椎名に差し入れ」
「あ、ああ、付き合わせて悪かったな。お前、覚えてろよ、この借りは必ず返すからな」
「悪役みたいな台詞なんだけど」
「今度マックシェイク奢ってやるよ」
「うん。ねえ、椎名……」

 わたしの願っていることを、椎名が知ったら戸惑わせてしまうかも。信じてまっすぐ進んでほしい。応援したい気持ちに嘘はないから。

「プール掃除、意外と楽しかったから、願い事はなしでいいよ」
「なし!?おいおい、お前らしくねぇぞ。もっと我儘で自分勝手なめんどくさがりがお前だろ」
「ばーか。椎名なんて一生泳いでろ」
「どんな悪口だよ、それ」

 椎名がわたしの名前を呼ぶ声は、いつもちょっとだけ低いように思う。わたしの願望から勝手にそう聞こえてしまうだけだったとしても、心地よく鼓膜を揺らす声に、いつだって特別を求めてしまう。

「今度、デートしようぜ。それがお前の願いごとだ」
「はあ?ばかじゃないの?」

 照れ隠しに素直じゃない言葉が口をついて出てしまったけれど、椎名はわたしに背を向けたままブラシを滑らせて走って行ってしまった。
短い髪に隠れはしない耳朶が赤く染まっていて、どうしようもなく駆け出したい気持ちになってしまう。夏のせい。


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