透明で澄んだ特別な景色。瞳を奪われて、立ち尽くす。ひどく感覚的な拘束。
 どうしてこんなにも惹きつけられるのか、上手く説明はできないけれど。生まれたときから持ち合わせていたのか、それとも何かきっかけがあったのか、すべての記憶の扉を叩こうとしても叶わず、ただ自分の気持ちの向かうほうへ。
 それはいつだったか、郁弥くんが花の蕾が開くような笑顔を見せて、語ってくれた記憶の一片。

 区民プールの開いた天井から降り注ぐ太陽に温められた水は、身体を緩やかに包む。
背中を預けて、腕と足の力でゆっくり進む。身体は自由になんて動かず、静かに水の中へ沈んでしまう。

「ラッコが溺れてるのかと思った」
「ラッコは溺れないと思うけど」

 郁弥くんは小さく声を上げて笑った。その笑顔を見ていると、なんでも許してしまいたくなることを彼は知っているのだろうか。
 水の中で自由を感じたことはいつも夢の中で、現実はなんて重たい足枷だろうと、気だるい疲れの乗った身体が示す。

 更衣室から出て二階へ上がると、ジュースやアイス、ホットドッグなどの軽食を提供している売店がある。
 テーブル席と、プールを見下ろせるカウンター席があり、先に着替え終わっていた郁弥くんはカウンター席に座っていた。頬杖をつき、ぼんやりプールを眺めながら。
 儚げで物憂げだった横顔には、いつの間にか向日葵のような明るさが差し込んでいる。

「お待たせ」
「うん」
「何か食べる?」
「今はいい。でも、水分はちゃんと摂ったほうがいいよ。プールの中でも汗かいてるんだから」
「じゃあ、アイスにしよ」
「僕の言ってたこと、聞いてた?」
「ソーダのアイスで水分摂るの。郁弥くんも一緒に食べようよ」

 清涼感あふれる水色は夏の景色によく映える。しゃり、と口の中でほどけていく度に、身体が喜んでいることが伝わってくる。
 ほんの少し不満気な表情をしていた郁弥くんは、諦めたようにそれを緩め、おずおずと頷いた。
幼い少年のような素直さは、彼には言えないけれど、とても愛らしくわたしには映ってしまうので、売店に向かい、彼に背を向けることで、緩んでしまう頬を隠した。
 指先は長い時間プールに入っていたせいで、ふやけてしまった。白く桃色の襞を眺めていると、人間はどうしたって陸の上でしか生活ができないのだと教えられているようだ。

「ここって、平日は夜もプールを開放してるんだって」
「そうなんだ!いいなあ、夜のプールで泳ぐなんて素敵だね」
「じゃあ、次は夜に来てみる?」

 気が遠くなるほど離れた星の目映い輝きは、幻の中で生きている。
 今、同じ場所で同じ時を刻んでいる郁弥くんとの繋がりの尊さを、奇跡を、大切に光らせたい。目映く、温かく、優しい色で。
 忘れたくない。今、信じたいと願う気持ちのすべてを。
 流れるプールで、郁弥くんに背中を預けて、浮いたままぐんぐん進む身体は羽のように軽い。
 東京の夜空には、星はこんなに目映く瞬いていないのだと思っていた。
故郷の夜空はどうだったのだろう。思えば空を見上げて星を眺めた記憶があまりない。
 
「郁弥くん、夜空を泳いでるみたいだよ」
「ラクしないでよね。こっちは泳ぎづらいんだから」

 連綿と続く日々の中で、今この瞬間は目の前を呆気なく過ぎ去っていき、いくつもの輝きをわたしはずっと見落としていた。
 感受性の豊かな彼は、確かにその目に映し、胸の中の静かな泉でそっと光らせていた。
 知らなかった。夢の中の幻の風景は、わたしが瞼を閉ざしていたせいで、現れてくれなかったことを。こんなにも世界が美しいことを。

 天井の窓ガラスを隔てて降ってくる星の光が、わたしに訴えかけてきたことを、いつか郁弥くんにも話したい。彼の夢に出てきますように、と祈りながら。


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