彼が泳いだ後、揺れる水面。その波は三つ隣のレーンにいたわたしの入水する際の指先に確かな存在感を示していて、もっと強く、大きく、たおやかに泳げるはずだと知らせていた。
 ロッカールームで見た背中は、今でも夢の中の出来事ではなかったのかとわたしを惑わせる。肩を震わせて、悔しさをにじませて、彼はわたしの前から姿を消した。
 努力は裏切らない――なんて嘘だと思った。
 背中を押してくれる豊かな水の流れを、わたしはもう掴めない。それでも前へ前へと腕を足を動かして一秒でも早く向こう側へと、突き動かされる。

「やめるなよ、水泳」

 教室の窓から差し込む光の温かさに、涙腺が緩んだだけだったのだと思う。秋が深まり、冬に入る準備を始める頃。寒くはなかった。
 決して諦めることなく、リハビリに励む彼を、わたしは勝手に強いのだと思っていた。思慮の足りない頭を今ならば叱責してやれる。

「お前はやめるな」

 ぱしゃん。目の前で跳ねた水は、白いスカートをほんの少し濡らした。色とりどりの丸い風船が浮かび、水面は穏やかに揺れている。プールの底と同じ色。
 透明な水は永遠に掴めず、その正体を目の前に曝け出したりはしないはずなのに、焦がれる。
陸の上で上手に走れないわたしはそれでも、水の中ではぐんぐん進めた。水の中にいれば怖いものはなかった。
 水面から顔を出して振り返ると、自分の辿ってきた水の波がゆらゆらと眩しく光る。

「宗介!」

 人混みの向こうで懐かしい名前を聞いた。彼と同じ名前。
声の主へと知らず視線が向くと、柔らかそうなくせっ毛を揺らす、背の高い男の子がいた。せっかくお祭りやってるんだから見ていこうよ、という彼の声は届かなかったのか、故意に無下にされたのかは不明だが、その男の子は残念そうに肩を落とす。
 ふいに目が合って、にっこりと笑顔を返されて戸惑う。何も反応できず立ち止まったままでいると、彼はこちらへ向かって小走りで駆け寄ってきた。

「こんにちは。きみ、どこかで見た覚えがあるんだけど、僕たち会ったことない?」
「え?えーと、……すみません、記憶力に自信なくて」

 親しみやすい笑顔と穏やかな話し方、女の子の扱いが上手そうだと感じると、どうも苦手意識が働いてしまう。思わず一歩後ろへ下がると、彼は両手をぶんぶん振って、慌てて付け加えた。

「いやいや、ナンパじゃないよ!ほんとにどこかで会った気が……」
「完全にナンパじゃねえか。やめろよ、貴澄」

 低く落ち着いた声。鋭い眼光は、高校で初めて会ったとき、彼を近寄りがたい存在だと思わせた。けれど、同じ水泳部で一緒に過ごすうちに、ただ不器用で感情表現がすこし苦手なだけだと知った。本当はとても優しく、頼りがいがあって、情に厚く、仲間思いの彼は、どんな気持ちでわたしに、水泳をやめるなと訴えかけてくれたのだろう。

「あ、そうだ!ね、きみ、燈鷹大の水泳部だよね?僕も同じ大学で、七瀬遙と椎名旭と友達なんだ。何回か練習見に行ったときに、きみを見かけた覚えあったんだよね。あー、思い出せてすっきりした」

 わたしは彼の姿を見つけられなくても、泳ぐことをやめなかった。水の中でまた彼の波を感じることができると、信じていたかったのかもしれない。

「うるせえよ、貴澄。ちょっと黙ってろ」
「えー?なんで急に怒られるの?宗介、機嫌悪い?それとももしかして今、僕すごく邪魔?」
「ああ、そうだな」

 彼は大型犬が尻尾を振り回すように、片手を振って「またねー」と人混みの中へあっという間に消えてしまった。目の前にいるのが、本当にあの山崎くんなのだと認識できずにいると、手首を掴まれた。

「向こうで話そうぜ」

 掴まれた手首にこもる力が弱すぎて、この人混みの中、見失ってしまうことがとても恐ろしかった。解けていく力に抗うように、気付くと、彼の腕をわたしが掴んでいた。肩を負傷したほうの腕だと気付くと動揺して、手の平を両手で挟むように握っていた。

「あ、ご……ごめんなさいっ」

 ふ、と小さく笑った気配に顔を上げる。「謝ることじゃない」と彼はわたしの手を力強く握り返してくれた。水の中にいるときと同じ感覚。怖いものなど何もなかった。ぐんぐん前へと進める力強さが、この優しくて大きな手の平から伝わってくる。

「久しぶりだな。元気だったか?」
「うん。山崎くん、地元に帰るって話してたから、まさかまた東京で会えるなんて思わなかった」
「ああ、迷ったよ。散々な」

 短い言葉の隙間に潜む、彼の苦悩や葛藤は、きっと表には出てこない。わたしはそれを本当の意味で理解することができないのに、勝手に泣くのはひどくずるいように思えた。

「……泣くなよ。泣かれると、」

 困る、と途方に暮れたような声。太陽の熱ですこし痛んだ髪を大きな手の平が撫でて、濡れた頬が彼の逞しい胸を濡らす。水の中では決して感じることのできなかった、彼の確かな体温に包まれて、ようやく夏が下りてきた気がした。

「わたし、水泳やめなかった」
「ああ、えらいな」
「ふふ、山崎君、お父さんみたい」
「おい、やめろ」


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