肌に張り付いてしまったブラウスは水分をたっぷり吸い込んで、わたしをきつく締め上げる。呼吸が乱れて、視界は白く煙っている。
 
 黒に近い灰色の雲に空が覆いつくされ、温い風が不穏な空気を肌に知らせる。空を見上げている頬にぽた、と雨粒がひとつ落ちてくると、それはすぐに激しい雨へと変わった。
 通学路にある文房具店はシャッターが閉まっていて、その軒下に一旦避難すると、すぐそばの地面はどんどん黒く染まっていった。
 足音は雨の音に掻き消されてしまいそうだったけれど、彼の影の大きさは視界が悪くてもすぐに気付くことができる。

「真琴くん」
「急に降ってきたね」

 視線を合わそうとすると、いつの間にか見上げなくてはならなくなった真琴くんは、それでも幼い頃のように目元を優しく緩めて穏やかな笑顔を見せる。

「夕立あるかもって天気予報で言ってたんだけど、傘忘れちゃって」
「わたしも予報見たんだけど、大丈夫かなって思って、傘持ってこなかったの」

 真琴くんは「のんきだね」と朗らかに笑った。暗い空の色が齎す不安を、あっさり忘れ去ってしまえるほどの穏やかな声。
わたしよりもずっと濡れてしまった真琴くんの髪から、ぽたぽたと水滴が滴り落ちていく。
 突然、遠くの方で雷鳴が轟く。心臓に響いてくるような音。もっと鮮やかに、カラフルに、明るく、記憶の海を泳いでいる。

 ドンドンと重たい音が空気を震わせる。連続して夜空に打ち上げられる見事な花火を見物するために、河川敷近くに集まった人たちの波にのまれ、ひとりはぐれてしまったとき、わたしの声は届かなかったはずなのに真琴くんはすぐに気付いてくれた。
 ブルーシートのたくさん敷かれた花火会場から遠ざかり、空いている石のベンチに座ると、日中の太陽で温められたせいか、石はじんわりと熱を持っていた。
 ひゅるひゅる、と天高くのぼっていき、ぽんと弾けた花火の形に、周りの小さな子供たちははしゃぎ、「ウサギー」「ネコー」「イワトビちゃん!」と飛び跳ねて声を上げている。
 そんな子供たちにひときわ優しい瞳を向けて、真琴くんは「小学生の頃も、ふたりではぐれたことあったよね」と懐かしむような声で言った。
 あのときも、今も、人混みの中でうまく歩けずはぐれてしまったのはわたしだけだった。
 ケータイで簡単に連絡がつく今と違い、周りに見知った顔を見つけられないと気付いたときの幼いわたしは、ひどく焦って混乱した。
瞳の中にたまっていく水分が溢れてしまう直前に、真琴くんがこっちへ向かって戻ってきてくれたとき、暗闇で花開く光は、ひときわ明るく見えた。
 あの後すぐに大人たちと合流できたから怖かった記憶が弱いのではなくて、彼が一緒にいてくれたからだ。わたしひとりでは心細くて、大泣きして、花火は苦い記憶となっていたに違いない。

 雨に濡れた地面から立ち上る大地のにおい。湿度が高くなるにつれて、濡れた制服は肌にますます張り付いてしまう。
 真琴くんの身体の線、優しげな目元、力強い腕、低くなった声、ふくらんだ喉仏、手の大きさ、紡がれる言葉の柔らかさ。
変わらないものと変わってしまったものを数えて、それで変わってしまったものが多かったら、わたしは彼をあの真琴くんだとどう認識したらいいのだろう。
 まるで近くの物置が倒壊してしまったような大きな音が空から降ってきて、びくりと震える。
その拍子にわたしの左手の小指が、真琴くんの手の甲にほんのすこし触れてしまうと、彼はそれをすっと引いた。気付かないふりを努めても、心に被った影が上手く振り払えずに、沈黙が流れる。
 この場を立ち去ってしまいたくても、雨はどんどん激しさを増していく。
遠くの空が光り、釣られてぼんやり顔を上げると、真琴くんも同じ方向を向いているのを視線の端で捉える。

「ごめん」
「ううん、わたしがぶつかったから」
「いや、そうじゃないんだ。俺、……」

 わたしはまっすぐな真琴くんの瞳から、視線を逸らすことができない。
知らないおとこのひとの顔。途端に熱に浮かされたように身体が熱くなって、まっすぐ立っていられない。
 ほんのわずかな接触に、心が揺れることなく、凪いだ海のような穏やかさでいられたのはいつまでだった?思い出せない。手を繋いで、安心だけが灯っていたのは、一体いつまで?
 真琴くんの体温はわたしよりもずっと高い。湿った制服越しで、彼の肌が近い。
意識的な接触に意味を付してしまったならば、もう戻れないのだと知っている。


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