透徹した水の流れが、目蓋の裏で確かに重なる。尾びれを翻し、縦に身体を揺らして、駆け上がるように太陽の熱を感じるところへ。イルカは戯れ、水は応える。
 明るく輝く光を目指して上へ上へとのぼっていく。水面から顔を出すと滑らかな肌で砂浜を踏みしめる美しい足が蝶のように舞っている。わたしはそれを、自由を求め、恍惚とした温みの中で手放した。
 輪郭がぼやけ、照りつける太陽の眩しい光で、瞳の色どころか髪の色も肌の色も口許に湛えているはずの微笑すらも黒く霞んでしまったというのに、わたしは彼女の美しい足の隣に並ぶその人に、囚われている。
けれど、伸ばした手は到底届かず、動くことを忘れたように凝り固まってしまった唇を必死で動かしても、決して喉は震えてくれない。

「ハルちゃん、学校のプールにイルカはいないよ」
「わかってる」

 テーマは『学校の風景』だった。無難に校舎を描いたわたしとは違い、ハルちゃんは大胆に現実と異なる存在を描き足してしまった。
夏に入る少し前。先生にやり直しを要求された彼は、その提出されなかった絵を、強請ったわたしにくれた。

 イルカの尾びれをつつむ水は、夏の青空のように突き抜けていて、まるで海の中にいるみたいだ。
イルカの祖先は陸で生活していたという。水を好んで、海を住処と選んだのならば……。
 夏の真夜中に迷い込んでしまうと、汗だくの身体から暗く重たい怠さがのしかかってきて、思わず自分の足を手のひらで摩って確認する。
確かに爪先も踵もふくらはぎも、自分のものだ。汗で湿っていたことにどきりとするが、一時的なものだとしっかり言い聞かせる。タイマーが切れて動きを止めていたエアコンのスイッチを入れると、身体の熱が冷やされていくごとに頭の中も冷静になっていく。

 菫色の向こうに明るい夜がある。風によってプールに波が走り、水面には温かみのある橙が溢れていた。木造の校舎に降る夏の夕暮れは、泣きたくなるほどの切なさを孕んでいる。

「お前が描いた絵に似てるな」

 あの絵を描いた時、確かに太陽は高い位置にいたはずだ。わたしも頭の中で勝手に夕暮れを迎え、筆に乗せてしまった。
 裸足になって、プールサイドに腰掛ける。ハルちゃんが着水する指先から、橙は溶けて、空へと解放される。
 ――ハルちゃん。
水の中にばかりいたら、陸上を自由に走り回る足は尾びれに変わってしまう。怖い。聞こえるの?わたしの声。ハルちゃん。

 プールから上がった彼の足元で、壁にぶつかった波がちゃぷんと音を立てる。ハルちゃんの冷たくなった肌に掌で触れると、どうしようもなく胸が騒いで、わたしはしがみつく様に彼に抱きついていた。
水の中で体温を下げてしまったハルちゃんの身体が、わたしには遠かった。

「制服、濡れるぞ」
「……夢を見るの」
「夢?」

 夢の中で、わたしの足はいつの間にか尾びれに変わっていて、ハルちゃんにわたしの声はいつも届かない。流れる涙は海に溶けてしまう。

「怖くて悲しい夢。夏になるといつも同じような夢を見ている気がする。内容をはっきりとは覚えていないのに、またこの夢だ、と思って」

 だんだんと覆いかぶさってくる夜の闇が深くなって、水の底のほうへ、夢の続きが広がっているんじゃないかと錯覚する。
 
「……泣くな」

 唇は水を湛えていた。

「な、……泣いてないよ」

 ――またこの夢だ、と思って、目が覚めるといつも泣いているの。

 夢の中で出会った。わたしの声は枯れていたはずなのに、彼はわたしを見失わずに、確かに震えもしない喉から届く声に応えてくれた。
遠ざかる背中は、いつも霞んで見失ってしまう前に、歩みを止めて、振り返る。
 わたしは懲りずに追いつけると信じて、彼へと向かう。足元、尾びれは見つからない。


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