宮城くんが湘北高校を受験することを知っていた。が、私の志望校ではなかった。別々の高校へ進学すれば、接点などゼロだった。
 高一の秋、初めて彼氏が出来た。同じ学校の明るくノリの良い先輩だった。一緒にいるだけで楽しくて、私の知らない映画や音楽やおしゃれなカフェをたくさん知っていて、セックスも慣れていた。宮城くんのように危うい雰囲気もなく、一緒にいて安心出来た。
 少なくとも付き合って二ヶ月間は。
「やめといた方がいいって言ったでしょ?」
 クラスで一番仲の良い友達は、先輩と付き合うことを最初から反対していた。
 人当たりが良くて友達も多く、スマートで頼りになって優しい先輩の何にそれほど引っ掛かるのか、私には理解できなかった。付き合う前までのことだ。
「他校の子と手繋いで歩いてるとこ見たのこれで何回目?」
 先輩がモテるのは知っていた。
 漫画のヒロインのように自分だけを想ってもらえる、と信じていた私は、ただ現実から目を逸らしているだけの臆病者に過ぎなかった。
 ドーナツ店の中は制服姿の女の子たちが多く、駅前の通りを歩いていくかっこいい男子高校生を見かけるたびに、そこここで小さく声が上がっていた。
「あれ、あいつ」
 過去に色々あったらしく恋愛にあまり首を突っ込もうとしない彼女が、珍しく窓の外を見て声を上げた。
 学ラン、ブレザー、私服、同じ年頃の男の子たちの姿をたくさん見つける。ほんの一瞬、目を惹かれる感覚が過った。気のせいだと知らないふりをした。
「どうしたの?知り合いでもいた?」
「いや、前に駅前で何回か声掛けてきた奴いるって言ったでしょ?そいつがいたの」
「ああ、振っちゃったんだよね。好みのタイプじゃなかったんだっけ」
「べつに。顔は悪くないし、センスも良い感じがしたんだけど」
「だけど?」
「中学のときの同級生が湘北に通っててさ、名前聞いたからどういう奴なのかちょっと聞いてみたの。そしたらそいつ同じ部活に好きな子がいるんだって。誰の目からもわかるぐらいぞっこんらしいのに、どういうつもりで声掛けてくるんだか」
「……湘北だったんだ」
「るみかも知り合いいる?」
「あー、……どうだったかなあ。仲良い子はいなかったと思うけど」
「そう。るみかも気をつけなよ」
「私は大丈夫だよ」
 すっきりと通った鼻筋に、大きくぱっちりとした勝気そうな瞳とふっくらと柔らかそうな唇。しっかり者で、いつも良い香りがして、凛としている大人っぽい彼女と自分ではタイプが違い過ぎる。
 中学を卒業して半年ほどしか経っていないのに、宮城くんはもう私の毎日からあっさり消えてしまった。団地の彼の部屋で過ごした濃密で背徳的な時間は、夢だったかのように記憶の中でも朧げだ。

 懐かしい面影を見つけた。身長は少し伸びていたけれど、見間違えるはずのない確かな面影。
「アンナちゃん」
「あ!るみかちゃんだ!」
 彼女は小さな身体に似つかわしくないほどの大きな荷物を抱えていた。
「旅行でも行くの?ずいぶん大きな荷物だね」
 聞いた途端、突然彼女の大きな瞳に水分が溜まっていくのを見て、なぜか背筋を悪寒のように冷たいものが走った。
 良い予感はおおかた外れるというのに、嫌な予感は当たってしまう。
「リョーちゃんがバイクで事故に遭って」
「えっ……」
「あ、命に別状はないの。でも、しばらく入院するんだ。だから着替えとか、入院中、暇だろうからリョーちゃんの部屋にあった雑誌とか、病院に持っていくところ」
 入院。事故。バイク。病院。不穏な言葉が一気に流れ込んできて、視界が一瞬真っ暗になった。足元が覚束ないように感じて、今が夢なのか、現実なのかわからなくなる。ただ、心臓が血管を震わせるようにドクドクと大きく音を立てているのが、耳の奥から聞こえる。それだけは確かだった。
「るみかちゃんもよかったらお見舞いに来てやってよ。リョーちゃんも喜ぶよ」
 喜ばないと思う。
 病室の真ん前まで来てからそう気がついた。
 上手く働かない頭は、正常な判断力を奪っていたが、ようやく機能したらしい。
 アンナちゃんの荷物運びを手伝い終えたらすぐ帰るべきだ。
 廊下の白い壁と山吹色の手すり、点滴を腕に刺したまま歩くパジャマ姿の患者たち、消毒液のにおい。この中に宮城くんがいるなんて信じられない気もするし、初めて会ったときにいずれはそんな日も来るのではないかと感じていた気もする。
「リョーちゃん!るみかちゃんがお見舞いに来てくれたよ」
 慣れた様子で病室に入っていくアンナちゃんの背中を追いかけられずにいると、
「あ、寝てる」
 その言葉に途端に気が抜けた。
「運ぶの手伝ってくれてありがとう。お礼にジュースでも飲んでいってよ」
 そう言って小さな冷蔵庫を開けると、中は空っぽだった。
「リョーちゃん、ぜんぶ飲んじゃったみたい。ごめん、売店か自販機で何か買ってくるね」
「いいよいいよ、気にしないで。私、すぐに帰るから」
「せっかくだから、リョーちゃんが起きるまでいてよお。ジュース、すぐ買ってくるから椅子に座って待ってて」
 引き留めるよりも速く、彼女は廊下へと消えてしまった。
 宮城くんは健やかに寝息を立てていて、首に巻かれたギブスも片目を覆う包帯も、痛々しくて見ていられなかったけれど、表情は穏やかですこしホッとした。
 外は骨に染みるほどの厳しい寒さだが、病院の中は薄着で過ごせるほど暖かかった。着ていたコートとマフラーを脱いで抱えると、ベッド近くの丸椅子に腰を下ろす。
 枕の横には月刊バスケットボールが一冊置かれていて、何気なく手に取ってページを捲ってみる。
 紙の擦れる音が静かな病室にやけに響き、起こしてしまうかもしれない、と雑誌を閉じた。元の場所に戻そうとすると宮城くんの寝惚けたような眼差しに気がつく。
「あ、ごめん、起こした?」
「あー、本物だった」
「……え?」
「久しぶりだな、花守」
 目が覚めたばかりの掠れた声を出して、のんきに笑顔を見せている。途端に視界が歪んで見えて、目元に熱が勝手に籠る。
「ばーか、なに泣いてんだよ」
 宮城くんといるといつも不安だった。彼の横顔にときおり現れる暗い影を、ふいに拾ってしまうたび、胸がざわざわと騒いだ。こんな未来が見えていたはずじゃなかった。なのに、やっぱりと思ってしまった。
 ベッドに背中を向けてポケットから出したハンカチで目元を抑える。涙を引っ込めようと、温かい記憶を呼び起こそうとすれば、彼の部屋を思い出す。それは決して明るく幸せな色をしていたわけではなかったはずなのに。肌の感触も、触れた唇の熱さも、もう遠い記憶だった。
「その制服」
「え?」
 ようやく落ち着きを取り戻すことが出来ると、彼が先に口を開いた。
「いや、まさか知り合いじゃねえよな」
 考え込むようにぶつぶつと何か呟いている宮城くんを改めて見ると、髪型も変わっていたし、体格もがっしりしていて、数ヶ月会わなかっただけなのに、記憶の中の宮城くんとは違うひとのようだった。
「髪、伸びたな」
「うん。伸ばしてたんだけど、……長いのもそろそろ飽きてきたし、切ろうかなって思ってる」
 宮城くんに髪に触れられてからずっと伸ばしていた髪は、きっと私らしさとは違っていた。
「そっか。短いほうが似合うかもな」
 忘れてしまったのだと知って悲しい気持ちは、もう思い出の中に放り込む。
「そういや、先月だったか。お前が男と歩いてんの見たぜ。あれ、彼氏だろ?」
「うん、そうだよ」
 今月に入ってすぐに別れていた。けれど、言う必要も、興味もないか、と言わなかった。
 アンナちゃんがジュースをたくさん抱えて戻ってきた。彼女の明るさが、いつもありがたかった。
 そろそろ帰ると告げると、アンナちゃんは引き留めてくれたが、宮城くんは何も言わなかった。きっとこんなに傷だらけの姿を、昔のクラスメイトに見られたくなかったんだと思う。私は傷つけたのかもしれない。

 執着などするタイプに見えなかった。少なくとも別れ話はスムーズに進めることが出来たし、ときどき廊下ですれ違っても先輩はいつも誰かと(大抵は女の子とだが)一緒だったし、会話を交わすこともなかった。
 確かに最近は男友達とばかりつるんでいるところしか見かけなくなった。遊び過ぎたのか、みんなに逃げられてしまったのかもしれない。
 私なら許すとでも思っているのか。
 帰りに生徒玄関の前で待っていることが増えたが、わたしはいつも頼りになる友達と一緒だったから、先輩はあっさり引き下がっていた。
 今日はその彼女が委員会の集まりで不在だった。電車に乗ってしまえば諦めると踏んでいたが、先輩は最寄駅までついてきてしまった。
「どこまでついてくるつもりですか?」
「るみかがやり直してくれるって言ってくれるまで」
「無理です。先輩のこともう好きじゃないです」
「恋愛の好きじゃなくてもいいよ。友達として仲良くしようよ」
 気安く肩を抱かれて、以前の自分は何故触れられて平気だったのだろうと不思議になるほど嫌悪感が走った。
 その手を振り払って距離を取ろうとすると、手首を掴まれた。強い力だった。ぎりぎりと締め付けられて、身体が硬直した。
 先輩は、力では敵わない男の人なんだと意識した途端、掴まれていた手の指先から震え始め、膝にまでその震えは広がった。
 ――怖い、どうしよう、誰か。
 住宅街に入っていて、駆け込むことのできそうな店舗は何も無かった。迂闊だった。
「ほら、来いよ。イイところに連れて行ってやる」
 手首を引っ張る力が強すぎて、抵抗出来なかった。引かれるままに歩き出して、知らず地面に視線が向くと、頭の上で先輩が突然悲鳴を上げた。
「宮城くん……」
 彼の手が先輩の腕を掴んでいた。そのまま捻りあげようとすると、先輩は私を離した。私が自由になったのを見て、宮城くんもその手を離した。
 背中を支えるように当てられた手の平の感触は温かかった。先輩に触れられたときの嫌悪感は、すっと消えていった。
「あ?なんだよ、このチビ。お前の新しい彼氏?趣味悪くなったなあ、るみか」
 酷い物言いにムッとして言い返そうとすると、先輩は宮城くんのほうを見て、顔を引き攣らせた。そのまま逃げるように駅に向かって走って行ってしまい、呆然としていると、宮城くんは中指を弾いて私の額に当てた。
「いたっ」
「変なのに絡まれてんじゃねーよ」
 安心させるようにすぐ傍に立ってくれていた彼は、一見すると怖そうだし、爽やかさもなかったけれど、優しかった。中学の頃からずっと変わらず優しかった。
「あの、ありがとう。助けてくれて」
 ギブスも包帯も無くなった彼は、顔がはっきり見えた。
「退院してたんだね」
「とっくにな。あれっきり見舞いにも来ねえ薄情モンは知らなかっただろうけど」
「だ、だって、もう来てほしくないって顔してた」
「してねーよ。勝手に察するな」
 団地を通り過ぎる宮城くんを、以前の私なら追いかけなかった。しつこく付き纏って嫌われたくなかったから。勝手に迷惑だと決めつけ、行動を控え、傷つかない道を選んでいた。
 春先の海風は冷たく、砂浜もスニーカーを通して足の裏に冷気を送り込んでくる。
「さっきの奴、見覚えあると思ったら、確かお前の彼氏だった奴だよな?」
「あー……うん。結構前に別れたんだけど、最近ちょっとだけ揉めてて」
「おいおい、大丈夫かよ?付き纏われてんのか?」
「もう大丈夫だと思う。宮城くんが凄んでくれたから」
「人聞きわりーな」
 そう言って笑う彼は、何か吹っ切れたような横顔をしていた。海風が宮城くんの癖のある髪を揺らして、吹き抜けていく。
 心臓が痛い。悲しさや辛さではなく、緊張のせいだった。
 見込みがないことも知っている。助けてくれたのは、彼が、知り合いが絡まれているのを見過ごすことの出来ないひとだからだ。
 言わないほうが良いのではないか。少なくとも気まずくならない。
 今日みたいに偶然会うことが出来たら、友達のように会話が出来るかもしれない。それが叶わなくなる。絡まってもつれそうになる舌を、唇を一度噛んで、抑え込む。
「私、宮城くんのことが好き」
 波打ち際ギリギリを歩いていた彼は、立ち止まって心底驚いたように振り返った。ひんやりとする風の、吹き荒ぶ音で掻き消されてしまうかもしれないと思った声は、確かに届いたようだった。
 宮城くんは真っ直ぐ私を見て、その後、視線を海に投げた。頭を掻く。良い答えが返ってこないと知る。言葉を選んでいるのだと思った。
「オレ、お前に嫌われたんだと思ってた」
 思い出を手繰り寄せると、胸を掻き毟ってしまいたくなるほどの拙さで恥ずかしくなる。
「初めてで、上手く出来なくて、痛い思いさせたし」
「初めて……だったんだ」
「そーだよ、悪いかよ」
「悪くない。けど、慣れてるように見えたから」
「いろいろべんきょーしたんだよ。もたついてるとカッコ悪いと思って」
 知らなかった、何も。彼の好きな色も、食べ物も、季節も、何も。私たちは圧倒的に言葉が足らなかった。話すべきことは語らず、ただほんの少しの間、一緒にいた。
 想いは離れた後にどんどん強くなった。いつも誰かと宮城くんを比べてしまっていた。宮城くんの良いところを、そうやってたくさん知った。彼はこんなふうに私を気遣ってくれていたのに。彼はもっと優しかったのに。
 忘れようとしていたのに再会して、抑えきれない気持ちは膨らむ一方だった。苦しかった。病院に行かなければもう会わないはずだった。中学を卒業したら、近所に住んでいても顔を合わすことなんて一度もなかったはずなのに、また会ってしまった。今、言うべきだと背中を押された気がした。
「オレ、他に好きな子がいる」
 知っていた。友達が声を掛けられたと聞いたとき、相手が湘北高校だと知っても、名前を確かめることがすぐには出来なかった。悪い予感はいつも当たる。
「全然相手にされてないけど、諦めらんねえんだわ」
 想いを告げて、振られるまでをイメージしていた。上手くいく未来はどうしても見えなかった。
 近づけたと思った距離は、自分から手繰り寄せようとしなければ、遠ざかる一方だった。
 あのとき、中学生だった私がもう少し頑張っていたら、何か変わっていたかもしれない。そうやって後悔すればキリが無い。
 だから、もう期待するのをやめる。振られたらスッキリすると思った胸はひどく痛むだけだった。
 溢れてしまいそうになる涙を堪えて、砂浜を駆ける。スニーカーの中に砂がどんどん入り込んでくるのも気にせず、道路へ繋がる階段を一番上まで駆け上がる。振り返って、大きく息を吸い込んだ。
「リョーちゃん、がんばれー!」
 初めてバスケの試合を観に行った中一の春、隣で一生懸命宮城くんの応援をするアンナちゃんの真似をしてみたら、宮城くんは目を丸くした後、笑った。優しい眼差しだった。あのとき一度も捉えられなかった彼の視線を、今度は手に入れることが出来た。



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