カーテンの向こうに、懐かしい気配のするビー玉のように澄んだ夏の夕暮れが広がっている。彼が窓を開けると、湿気を含んだぬるい風が吹き込み、汗ばんだ肌を撫でた。
「……なんか飲む?」
 背中を向けたまま掛けられた声に咄嗟に「いらない、帰る」と返したのは、知らない人の声みたいに聞こえたから。「あ、そ」素っ気なく響く返事に、こんなふうに二人きりで過ごす時間はもう訪れないのだと漠然と感じた。

 シルバーのピアスが白い蛍光灯の光を受けて、鈍く光っていた。癖のある茶色がかった髪の下で、やる気のない瞳が覗く。
 たった一言を発しただけなのに、彼の持つ危うげな空気に呑まれてしまいそうになった。大抵の人は怖くて踏み出せないはずの一歩を、彼はあっさり超えてしまう。そんな危うさだった。

 団地が建ち並ぶ小道を住所の書かれたメモを片手に進む。
 風邪、という理由で学校を休んだ宮城くんに、家が近所のためにプリントを届けるよう先生に頼まれたからだった。
 先生の綺麗な文字と合致する団地の棟の番号を見つけ、冷たいコンクリートの階段を一歩一歩上がる。
 宮城くんが転入してきて、まだ一ヶ月も経っていない。仲が良いわけではない。会話どころか挨拶すらしたことがないのだから。
 そもそも彼はクラスでも浮いていた。馴染もうとする意志は微塵も感じられず、一人でも平気な顔をしている宮城くんは、それでも女子の間では密かに人気が出始めていた。
 落ち着きがなく、くだらないことばかりして騒ぐ他の男子たちにはない、どことなく大人びた雰囲気を持つ彼が、気になってしまう女子は一定数いた。
 そして、その気持ちがわからないでもなかったせいで、先生の頼み事を断ることが出来なかった。
 重たそうなドアの横に「宮城」の文字を見つけ、緊張で震えてしまいそうになる人差し指を無理やり動かしてインターホンを押すと、「はーい」と明るい女の子の声が応えた。開いたドアの向こうにその声から想像した通りの可愛い女の子が立っている。
「あ、あの、私、宮城くんと同じクラスの、」
「リョーちゃんのお友達?リョーちゃーん」
 名乗り終える前に、女の子は奥の部屋へ向かって声を張り上げた。
 すぐに誰かが近づいてくる気配を感じる。途端に緊張が増した。
 クラスが同じでも、きっと彼は私のことを覚えていない。それなのに、家まで押しかけてきて、彼はどう思うだろう。決して良い感情を持ちはしないことだけは確かだった。
 今更、逃げ出したくなってももう遅い。が、頭の中をぐるぐると駆け回っていた考えは一瞬で吹き飛んでしまった。
 玄関先に顔を出した宮城くんの顔を見て、風邪というのは嘘だったのだと気づいた。顔に数箇所の青痣が出来ていたからだった。
 驚いて声も出せずにいる私を見て、彼は気まずそうに目を逸らした。
「リョーちゃん、不良なんだよ。殴り合いの喧嘩しちゃってさ」
 女の子が楽しげに声を出す。が、重たい空気が流れているのを変えようとした気配りかもしれなかった。
「ばーか。喧嘩したら不良なのかよ」
「学校だってズル休みしてる」
「こんな顔で行けねえだろ」
 宮城くんの、妹さんだろうか。彼の眼差しは優しかった。
「三者面談のプリント、渡すように先生に頼まれて」
 鞄の中から取り出して渡すと、宮城くんは「どーも」と素っ気なく返事をしただけだった。
「ありがとう、でしょ、リョーちゃん!」
 割って入ってきた明るい声に、宮城くんはバツが悪そうに頭をかいて、「ありがとう」とぼそぼそと言った。

 バスケ部に入った宮城くんは部活で忙しくなり、辺りが暗くなっても近所の公園で一人でブランコを揺らしているアンナちゃんを時折見かけるようになった。
 私と目が合うと、彼女は人懐こい笑顔で「おかえりー」と駆け寄ってきてくれた。お母さんは遅くまで仕事で、一緒に遊んでいた友達はもう家に帰ってしまったのだと言う。
「夕飯はどうするの?」
「お母さんとリョーちゃんが帰ってきてから一緒に食べる」
「じゃあ、それまでウチにいる?」
 宮城くんとは相変わらずろくに会話もなく過ごしているけれど、アンナちゃんと過ごす時間が増えた。
 ときどき彼女のイントネーションが聞き慣れないものだと気づくとき、沖縄の遠さを想う。
「日曜日、一緒にリョーちゃんの試合観に行こうよ」
 体育の授業で見るバスケとは違う、目で追うのも難しいほどの速いパス回し、弧を描く綺麗なシュート、激しくぶつかり合うゴール下の攻防、の中心に宮城くんがいた。
 やる気のない冷めた目で授業中も居眠りばかりの彼からは想像もつかないほどの熱を感じて、妙な昂揚感が走った。
 気づけばずっと彼を目で追っていた。周りは背の高い人ばかりで、埋もれてしまいそうなのに、宮城くんは一際目を惹いていた。
 隣にいるアンナちゃんの声援が届き、ほんの一瞬こちらへ向けられた瞳に、私は映っていなかった。当たり前の事実に打ちのめされた。
「リョーちゃん、かっこよかったねえ」
 帰り道、興奮気味に話すアンナちゃんに、素直に同意する。
「うん、かっこよかった」
「あれ、るみかちゃん、もしかしてリョーちゃんのこと好きになった?」
「えっ!?」
「わかるよお。バスケしてる時だけはかっこいいからさ」
 
 教室にいる宮城くんはやっぱりやる気のない目で、面倒そうに頬杖をついて、窓の外をぼんやり眺めている。私が想像する海と、違う景色を持っている彼はやっぱりどこか遠い人で、気軽に話し掛けることは出来なかった。
 忘れ物をして教室に取りに戻ると、宮城くんが机に向かってペンを走らせていた。思わず教室に踏み入れようとした足が止まる。彼が気がついて顔を上げた。
「……ああ、居残り」
「英語の小テストの?」
 点数が悪いと放課後に再テストだと聞いていた。他にも該当者は数人いたはずだが、今残っているのは宮城くんだけだった。
 ぶすっとした顔で頷く宮城くんに、拗ねた表情を見せるアンナちゃんが重なる。
「昨日、試合観に来てたよな」
 アンナちゃんと交わした会話を思い出す。知らないはずなのに、知られているように錯覚する。
「悪かったな。あいつが連れ回したんだろ」
「ううん。私も楽しかったから」
「試合観んの初めて?」
「うん」
 宮城くんと会話をしている。不思議な感覚だった。
「宮城くんって、もしかしてシュート苦手?」
「は?」
 会話が途切れるのが怖くてつい思いついたことをそのまま口に出してしまうと、彼の眉間に思い切り皺が寄ってしまった。
「あ、ごめん。昨日の試合で、あんまりシュート打たないんだなって思って」
「あのなあ」
 大袈裟にため息を吐いた後、彼は自分の前の空いている椅子を指差した。座れ、ということなんだと理解したけれど、明らかに機嫌を損ねてしまったらしい宮城くんの近くに寄るのは躊躇してしまう。
「座れよ、るみかちゃん?」
 アンナちゃんと同じ呼び方をして、悪戯っこのように笑って見せる。宮城くんの笑顔を初めて見た気がした。
「あのな、お前はぜんっぜんわかってねえ」
「……はあ」
 笑顔に釣られ呼ばれるままに椅子に座ると、途端に厳しい表情でダメ出しをされ、感情が追いつかずに気の抜けた返事をしてしまう。
「オレのポジションはボールを運ぶのが主な仕事なんだよ。華麗なドリブルとパスで周りを動かすチームの司令塔なの。わかる?」
 得意げに語る宮城くんは身近なクラスメイトの顔をしていた。知らない彼の顔を知るたびにもっともっと、と貪欲になる。クラスメイトにもバスケ部の人たちにも見せたことのない顔が見たい。

 雑誌がぎゅうぎゅうに詰め込まれている棚の重みで畳が沈んでいた。
「狭いだろ?布団敷いたらそれでスペース終わりだもんよ」
 折り畳んだ布団の上に並んで座る。
 散乱している月刊バスケットボールの下に、水着のお姉さんが写った雑誌が見え隠れしていることに気付いて視線を逸らした瞬間、宮城くんはそれらの雑誌をさり気なく纏めて拾い上げ、机の上に乗せた。
「……見た?」
「見、てない」
「嘘が下手だな、花守は」
 苗字で呼び捨ては、他のクラスメイトの呼び方と同じだった。あれは単に揶揄われたに過ぎなかった。クラスの男子に下の名前で呼ばれることなんて初めてだったせいで、すごく特別に感じたのに。
「宮城くんは髪の長い女の子のほうが好き?」
 ほんの一瞬目に飛び込んできただけでも、艶やかな長い黒髪が水着の上で揺れていたのが気になった。
「え?いや、……オレ、そういうのわかんねえ」
 肩にも届かない長さの自分の髪に何気なく触れると、宮城くんも同じように触れて、毛先を弄んだ。
「長いほうがいいって言ったら、髪伸ばす?」
 宮城くんの左耳に光っているピアスが、すぐ触れられる距離にあった。耳はすこし赤く腫れているように見えた。手が伸びる。けれど、伸ばしたその手を彼が掴んでいた。ピアスにばかり気を取られているのが不満なのか、頬の肉に宮城くんの親指と人差し指が沈むほど強引に顎を掴まれた。
 近い距離で視線がぶつかる。強い意志を感じさせる瞳、が突然迷いに触れたように揺れる。勢いよく距離がゼロになり、目を瞑ると額がゴチンと音を立てた。
「イッ、……てえ。お前、石頭だな」
 目を開けると、涙目で額を抑える宮城くんがいた。さっきまで確認できていた耳の腫れが隠れてしまうほど、彼の耳から首筋までは真っ赤になっていた。
 頭突きをされただけなのに、感じたことのない甘い空気が流れているようで、慌てて鞄を掴んだ。立ち上がると制服のスカートはプリーツが乱れ、皺になっていた。
 
 私たちは三年生になった。派手なグループの中には初体験を済ましたと自慢げに話す子もいた。
 宮城くんはとっくに済ませている、と噂されていた。そうかもしれない、と思った。
 私たちの触れ合いは、性への興味を満たす手段に過ぎなかった。手に触れ、足に触れ、耳たぶ、唇、と行為がエスカレートするにつれて、罪悪感が膨らんでいった。
 修学旅行の夜、ホテルの部屋を抜け出して、非常階段で待ち合わせしている宮城くんの元へ向かうことは、同意に等しかった。
 沈黙が作り出す空気に充てられて、真っ直ぐに向けられる彼の視線から逃れるすべを知らなかった。至近距離の恥ずかしさに耐えられず目を瞑ると、唇同士がほんの一瞬触れた。同時に彼の右手が私の胸を掴んでいた。
 ホテルの部屋のベッドは真っ白で清潔で、冷たい感触だった。暗い部屋の中で、自分の唇に触れると、熱が戻ってくるようだった。
 
 畳に押し付けられた身体が痛くて、でも言えなかった。服を脱がされるのは到底耐えられない羞恥で、中途半端に脱がされた制服や下着は足や腕に絡み付いていた。
 カーテンを引いても、まるで昼間のように眩しい夏の陽射しが照り付け、首筋に流れる汗すら確認出来た。癖のある髪が汗に濡れ、瞳を隠した。
 家に帰ってから入ったトイレで股の間から生理とは違う出血を確認したとき、私はもう処女ではないのだと知った。
 あまりの痛みに耐えられずにいた私を気遣って、宮城くんは途中で止めてくれたはずだったが、そのときすでに破爪していたようだ。
 翌日も出血は止まらず不安で堪らなかったが、誰にも相談が出来なかった。眠れぬ夜を過ごし、3日目の朝になってトイレへ向かうと出血はあっさり止まっていた。
 その日以降、宮城くんとは卒業までほぼ話すことはなかった。目を合わすことすら憚られた。クラスの誰かに私たちのことを知られてしまう気がしていた。



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