身体は疲れているはずなのに、うまく眠りに落ちていくことができない。それはときどき訪れる。
 言葉で吐き出すことのできない曖昧な不安と恐怖と緊張と、あらゆる負の感情が身体に執拗に巻きついているような感覚。
逃げ出すことがとても困難で、いつもはじっと耐えて朝を待っているのに、今夜はそれすら全身が拒んでいる。
そうなると夜はどこまでも深くて、朝は限りなく遠い。

 コートのポケットにスマホだけを突っ込んでふらり外に出てみると、月明かりがやたらと強く余計に落ちつかなかった。
それでも肌を刺す痛いほどの冷気で気分が冴えて、がんじがらめになっていたわたしをほんのすこし楽にしてくれた。外に出たのは正解だと思った。

 夜に考え事をしてはいけないという祖母の言葉はずっと頭の片隅に置いてあるはずなのに、ベッドに横になって目を閉じていると考えたくもないのに勝手に降ってきてしまうのを止めることができない。
 太陽が姿を消した途端、世界は表情を変えてしまう。
悪いことは悪い方へ、良いことも悪い方へ引っ張られてしまう。
そういうときは身体を動かすに限る。歩いていればそっちにちょっとでも意識が逸れる。わたしは器用ではなかった。
 ふいにポケットで震えているスマホに気付いて、画面を見る。
普段は用事でもない限り掛けてこないのに、一人だと押しつぶされそうな夜にいつも掛けてくれるあの人の優しさはずるいと思った。
「風間さん」
「お前、外にいるな。雑音がする」
「開口一番それですか」
「いま何時だと思ってる」
「わたしももう18です。子ども扱いしないでください」
「18でもまだ高校生だ。いまどこにいる?」
「ええと……木?のそばです」
「それじゃあ、わからない」
 電話口で大袈裟に溜息をついている。呆れている風間さんの表情が簡単に目に浮かぶ。
そういえばわたしはいつもあの人を呆れさせてばかりだなあと思った。
 寒さで表情すら失いそうだったのに、しばらくぶりに綻ぶ。重たかった足が軽くなる。
さっきよりもずっと軽快につま先が地面を蹴る。テンポよく歩が進むと視線が勝手に上を向いた。
 気付くと街はまだだいぶ明るい。たくさんの窓から優しい人工的な光が零れている。
月光は人間の光で霞み、星の瞬きは弱くなった。透明な光が辺りにぶつかり、夜の底を漂っている。

「風間さんはわたしがちゃんとやれていると思いますか?」
「質問が抽象的すぎるな」
「……強く、なれますか」
「自信がないのがお前の短所だ」
「風間さんはわたしに甘すぎるんですよ」
「調子に乗るな。甘やかした覚えなどない」
 拭いきれずに引き連れていた薄暗い感情が薄らいでいた。夜はまだ深くてわたしに好意的ではないというのに。
 吐く息は白い。冬が過ぎれば、大学生だ。それでもあの人の背中は遠くて霞む。見失ってしまいそうなほどに。
諦めない、というのがまず前提だった。気を抜けば足を止めてしまいそうだ。前を向き続けるというのは、果てしない。
 風間さんのまっすぐな瞳が見たい。わたしはたくさん迷ってしまいそうです。

「で、結局お前はどこにいるんだ?」
「学校の近く、……に」
 わたしはとっくに救われていた。電話を掛けてくれたことだけでも、充分だったはずなのに。
 風間さんが通っていた高校と同じ制服に袖を通せたことに嬉しさでいっぱいになって、朝早くても弾むように制服に手を掛けて、毎日のように通っていた見慣れた通学路を自然と足が追っていて。
年齢差のせいで同じ校舎で時間を共有することは叶わなかったけれど、正門に寄りかかるように立っている風間さんを見ただけで胸がいっぱいになるほどに、わたしはもうこのひとに焦がれている。
「夜遅くにあまり出歩くなといつも言っているだろう」
「風間さん。……おとうさんみたいです」
「うるさい。早く帰るぞ」



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