「るみか、……だよね?」
 掛けられた声に聞き覚えはなかった。それでも振り返ったときに感じた懐かしさは、確かに胸のうちで光っている。面影の残る顔に幼さを重ねてみれば、中学の同級生の顔と名前が頭に浮かんできた。
 桐嶋郁弥くんは中学の一年間を同じクラスと同じ部活で過ごしただけの間柄だった。水泳部は下の名前で呼び合うことになっていたため、そのときの癖で自然と名前を呼ばれただけであって特別仲が良かったわけじゃない。そう感じていた彼は、確かにわたしを見つけてくれた。
 キャンパス内に入っているカフェの窓際のカウンター席に並んで座ると、郁弥くんは周りの目を一際惹いていることに今更気付いた。伸びた身長と、細身とはいえ鍛えられた筋肉に包まれた身体を持っていても、長い睫毛が大きな瞳を縁取り、儚げで頼りないような印象を残してしまうのは彼の稟性なのかもしれない。整った横顔に、深い海の底のような暗い影が映っていたかのように見えて、ふいにどきりとした。
「るみか、化粧してるんだね」
 言われて思わず顔を両手で隠してしまう。午前中の授業をひとつ終えたばかり。それでも朝、アパートを出てから二時間は経っている。出来れば化粧直しをした直後に郁弥くんと出会いたかった。
「……そりゃあもう大学生だし、多少はしてるけど。でも、上手じゃないからまじまじ見られるのは恥ずかしい」
 郁弥くんは目元を緩めて少し笑う。わたしも釣られて笑うと、郁弥くんに差していた影の気配が薄れたように見えた。
「郁弥、こんな所にいたの?」
 穏やかな声がするほうへ、郁弥くんに釣られて振り返ると眼鏡を掛けた男の子が立っていた。
 彼は郁弥くんに柔らかい笑顔を見せた後、わたしに一瞬視線を投げた。その瞬間、彼の表情から穏やかな笑顔が消え、炯々たる眼差しに射抜かれたわたしは、さながら蛙のようだった。感情の読めない冷淡な蛇の瞳に射抜かれた哀れな蛙。そんな素振りに気づく様子のない郁弥くんは、彼と穏やかに言葉を交わす。
「日和、今日の授業は午後からって言ってなかった?」
「うん、そうなんだけど。ちょっと図書館に寄りたかったから早めに来てたんだ。……ところで、隣の子は知り合い?それとも郁弥に言い寄ってるのかな?」
 突然の物言いに言葉が出てこない。固まったままのわたしの代わりに郁弥くんがイスから立ちあがって、
「日和、変な言い方しないで。るみかは中学が一緒だったんだ。友達だよ」
 友達、と郁弥くんに認識されている。思わず舞い上がると更に強い敵意のまなざしに刺された。気がしたけれど顔を上げればそこには笑顔がある。郁弥くんに向けられていたものとは違い、ひどく温度の低い笑顔だ。
「そうなんだ。ごめんね、失礼なこと言って。僕は遠野日和。郁弥の親友なんだ」
 抑揚のない謝罪の言葉、やたらと「親友」という単語に力が込められている。喉の奥から唇の裏側まで突き出ていた文句も、郁弥くんに不安そうな瞳を向けられると引っ込んでしまった。
 棘が見つかってしまわぬように心を沈めて無難な自己紹介を済ますと、早々にこの場を退散することにした。
「あ、るみか。良ければ連絡先教えて」
「郁弥、急いでるみたいだからまた今度にしたら?」
「全然急いでないです。郁弥くん、ぜひ交換しよう」
 郁弥くんの連絡先がわたしのスマホの中に入っている。浮き足立ってしまいそうな心を落ち着かせながら図書館へ向かい、学生証をかざしてゲートを通ろうとバッグの中を探ると、どうにも目当てのものが見つからない。いつもはバッグの内ポケットに入れているのだけれど、学生課で書類を申請する際に取り出して、そこからどこにしまったのか記憶からすっぽり抜け落ちている。
「忘れ物だよ」
 声に怒気も苛立ちも含まれていない、ように思えた。けれど、振り返ることを躊躇してしまうぐらい、会ったばかりの彼にはもう完全な苦手意識が植え付けられていた。ぎぎぎ、と錆び付いた扉のように鈍重な動きで振り返ると、つい今しがた探していたものを彼が差し出している。なんとなく感じが悪いと思ってしまったのは、わたしの勘違いだったかもしれない。郁弥くんの友達みたいだし、悪い人ではないはず。気を取り直すように引き攣っていた頬の筋肉を解くと、精いっぱいの笑顔でこたえる。
「どうもありがとう。無くしたのかと思って焦っていたところだったの」
「どういたしまして。気付いたのは郁弥だけど、郁弥の手を煩わせるようなことじゃないからしょうがなく僕が来たんだ。本当は僕の手も煩わせてほしくないんだけどね」
 悪い人ではない、はず。言い聞かせるように頭の中で繰り返す。
「……そ、そうだよね、ごめんね」
「ごめんって一言で済まそうなんてずいぶん傲慢だね。もっと誠意のある態度を見せて欲しいな」
「誠意って。……どうしたらいいの?」
「そんなことは自分で考えるべきだと思うよ」
 眼鏡の奥の瞳に、わたしへの明らかな敵意が見て取れる。
「え、ええと、……土下座とか?」
 言った途端にこやかな笑顔を返され、正解を叩き出したのかと安堵したが、土下座するという間違った方向へ自分から舵を切った過ちに気が付いた。が、「そんなことされても逆に迷惑なんだけど」と笑顔に似つかわしくない棘のある声が返ってきて、結果わたしは救われた気がして悔しい。
「しょうがないから今回は特別に教えてあげる」と、腕っぷしが強そうには見えないが、縦の圧力に押されて見上げたまま唇を引き結ぶわたしに向かって、
「郁弥に近付かないでほしいな」
 紡がれた言葉を反芻して飲み込もうとして、持て余す。「…………え?」聞き間違いではないか、と。
「えー、と、ごめん、どういう意味?」
「やだなあ、そんなに頭の悪い子はこの大学に入れないはずだけど。そのままの意味だよ。郁弥の輝かしい未来にとって君は邪魔だってこと」

 午前の講義が終わり、混み合う学食でも彼の姿をすぐに見つけることが叶う。空いている席を探している様子の郁弥くん、の隣にはわたしの輝かしい大学生活の始まりに泥を引っ掛けてきた人物を必ず見つけてしまう。
「るみか、これからお昼?」
 気づいて声を掛けてくれる郁弥くんの後ろで、遠野くんがどんな顔をしているのか一度写真にでも収めて、郁弥くんに見せてやりたい。そんな気持ちを無理やり心の奥に押し込み、笑顔を保つ。
「そうなの。売店でパンでも買おうかなって」
「一緒に食べない?」
 願ってもない誘いに返事をする隙も与えられずに、「郁弥、彼女だって一緒に食べる友達がいるんじゃない?」
 勝手に答える遠野くんには腹が立つが、サークルの部室で昼食を取りながら合宿の打ち合わせをする予定があるため、いずれにしても断るしかなかった。
「ごめんね。一緒に食べたいんだけど、これからサークルの集まりがあって」
「とっても残念だけど、しょうがないよね。じゃあ行こうか、郁弥」
 心にもないことを、と郁弥くんの背を押して行ってしまう遠野くんの背中を憎々し気に睨んでいると、ふいに彼が振り返り、勝ち誇ったような顔を見せた。

「うー、ストレス溜まる」
 部室の机に突っ伏して力なく言うと、「また遠野くん?」と同じ学部で知り合った友達が聞き飽きたと言いたげに問う。
「そう!わたし、嫌われるようなことした覚えないのに」
「一度遠野くんとじっくり話してみれば?」
 考えも及ばなかったアドバイスに、思わず口に含んだお茶を吹き出してしまうところだった。
「な、なんで?」
「話してみたら意外といい人だった、ってよくある話だよ」
 
 連絡先も知らない遠野くんとじっくり話す機会などどう作ればいいのだろう、と考えながらレポート提出のための参考資料を借りるため図書館へ向かうと、入り口でばったり遠野くんと会ってしまった。これはもう実行せよ、とのお告げなのかも、とその勢いのまま完全無視を決め込んで通り過ぎようとした彼の前に立ちはだかり両腕を広げて進路を塞ぐ。
「何か用?」
「遠野くん、偶然だね。一人?」
「そうだけど。ああ、郁弥だったら今日は午前の講義が休講になって、午後から来る予定だよ」
 じゃあ、と聞きたいことはすべて話したという顔をして去ろうとする遠野くんの前に、腕を広げたまま行かせまいとするわたしを、彼は怪訝な表情で見下ろして、眼鏡のずれを直した。
「君と遊んでる暇はないんだけど」
「遠野くんとすこし話がしたいな、と思って。時間取ってくれないかな?」言うと彼は面食らったように松葉色の瞳を瞬いた。が、すぐに気を取り直して、「どういうつもり?」と拒絶の色を濃くした声で答えた。
「どうって。遠野くんと仲良くしたいな、と思って」
「外堀から埋めようって魂胆?」
「そういうわけじゃないけど。郁弥くんの友達だったら、わたしも仲良く出来るかなって。大学で友達たくさん作りたいし」
「悪いんだけど、他を当たってくれる?僕は君と仲良くなれる気がしないんだよね」
「話してみないとわかんないよ。遠野くん、わたしのこと知らないでしょ?知ったら好きになるかも」
 図書館から並んで歩き、気づけば大学の正門前まで来ている。
「あれ?帰るの?」
「今日は午前で終わりなんだ。水泳部の練習は夕方からだから、お昼は外で食べようかと思って」
「わたしも今日は午前で終わりなの。ちょうどいいね」
「ちょうどよくない」
「どこでお昼食べるの?東京のお店ってあんまり知らないから教えて欲しいな」
 承諾のないまま無言で歩き続ける遠野くんの隣を歩いていると、ふいに前方からきたスーツ姿の集団にのまれ、遅れを取ってしまった。置いて行かれてしまった、と諦めていたわたしの目に遠野くんの顔が映る。さほど広くない歩道のため、他の歩行者の邪魔にならないようシャッターの下りた店先の前で佇んでいる彼はわたしを待ってくれている、ように思える。追いつくと、彼は再び歩き始めた。後ろを歩くと、柔らかい素材と優しい色味のゆったりした服に包まれ気づかなかったけれど、遠野くんは意外とがっしりしていた。肩幅も広く、見えはしないが背中にもしっかり筋肉がついているのだろうと勝手に頭の中に描いてしまうのを見抜いたようなタイミングで彼は立ち止まった。純喫茶といった様子の外観から思わず身構えたが、店内は大学生ぐらいのお客が多く、メニューもポップでカラフルな色合いが目を惹いた。
「おしゃれなところだね。こんなお店が大学の近くにあるなんて知らなかった」
 お店の雰囲気の良さに素直に喜んでしまった。遠野くんは呆れたようにため息をついて、「君は暢気で羨ましいよ」と相変わらずひねくれたことを言ったけれど、そこにいつものような毒はなかった。
「何かあった?」
「別に。君には関係のない話だよ」
「君、君って。花守るみかと申しますが」
「覚えてるよ。記憶力は悪い方じゃないから」
 不満げに恨めしい視線を投げたが、遠野くんは意に介さず、「名前を呼ぶことは、距離を縮める一番簡単な方法なんだって。だから、君のことは君って呼ぶね」
「そうなんだ。じゃあ、わたしは日和くんって呼ぼうかな」
「勝手に呼ばないでくれるかな」
「日和くんってどんな音楽聴くの?」
 真意を図りかねたように困惑の見て取れる表情を浮かべながらも、「……よく聴くのはロック」と渋々ながらも答えてくれる日和くんはやっぱり悪い人ではなかった。
 
 
 図書館の入り口前で、手持無沙汰に佇んでいるるみかに声を掛けるべきか迷った日和が立ち止まると、先にるみかが気づいて手を大きく振った。
「日和くん!今、帰るところ?」
 何度日和が正しても彼女は勝手に彼を名前で呼んでいる。名前で呼ばれるぐらいのことでムキになって拒むのも幼いかと、最近では好きに呼ばせていた。
「そうだよ。君はもしかして傘がないの?」
 曇天からぽつりぽつりと降り出した雨粒は、次第に強さを増し、日和の傘を叩いていた。夜から雨の予報だったが、夕方と呼べる時間に降り出してしまった雨に、足を止めている学生は図書館の前に数人いた。
「もしかしなくても傘がないの。でも、お気になさらず」
「止むまで待つつもり?」
「もうちょっと雨が弱くなったら、走って帰るつもり」
「あ、そう。風邪ひかないように気を付けてね」
 弱まる気配など見えない雨が、叩くリズムを速めている。濡れそぼったベンチの前で立ち止まり、スマホで天気予報を確認すれば、時間が経つにつれて雷のマークまでついてくる強雨の予報だ。
 正門を出る手前、振り返るとるみかの姿は見えなくなっていた。駅に向かって歩くべき足が重たく感じると、日和は図書館のほうへ向きを変えた。
 るみかは図書館の前に変わらずいたが、知らない男子学生と話しているのが遠目にも確認できた。
 友達か、彼氏か。心配して損した。引き返そうとしたが、どうにも様子がおかしい。るみかは困っているようにも見えるが、相手はずいぶん強引だ。
「花守さんって彼氏いないよね?」
 後ずさるるみかの腕を、逃すまいと掴む男の手の指が彼女の細いそれを容易く手折ってしまいそうに見え、
「るみか。ごめん、お待たせ」気づくと声を掛けていた。
 二人の視線が日和に注がれ、男は気まずそうに立ち去って行った。るみかは強張っていた表情を、日和を見た途端緩め、立ち尽くしていた。
「余計なお世話だった?」
「う、ううん、……ありがとう」
「……付き纏われてるの?」
「うーん。一度ちゃんと断ったんだけど」
「物好きもいるもんだね」
「ほんとにね」無理に笑おうとするるみかは、それほど怖い思いをしたと思っていたわけでもなかったはずが、ふいに涙が込み上げてきたことに戸惑っていた。日和は傘の中に招くと、「お茶でも飲んでいこうか?」と気遣うように声を掛けた。

 ほうじ茶ラテの入ったグラスの中、氷がカランと涼し気な音を立てた。窓外に視線を投げたまま、無理もないが珍しく口数の少ない彼女はしおらしく映った。横顔だとすこし大人っぽく見えて、睫毛が揺れる度に、泣いているのではないかと目が離せなかった。
「日和くん」
 もはや聞きなれた呼び方で窓から日和へ視線を向ける彼女は、悪戯っぽい笑顔を浮かべて、「さっき、わたしの名前呼んでたね」と楽しそうに言った。
「あれは、……その方が都合が良いかと思っただけで」
「日和くんが前に言ってたこと本当だね。距離が縮まった気がしたもん」
「べつに縮まってないから」
 暗鬱を散らした彼女の横顔は見慣れず、不安に駆られたが、もう普段通りに笑っている。日和はポケットからスマホを取り出した。「念のためだけど、僕の連絡先教えておくから」
「え?また助けに来てくれるの?」
「他に頼る人がいなくて、郁弥に面倒掛けられても困るから」
 素っ気ない物言いになってしまったというのに、るみかはもう動じる様子もなく、笑顔のままだった。勝敗などあるはずもないのに、敗けたと思った。ただ、それが悔しくもなかった。
「日和くんって彼女いるの?」
 その質問を投げかけてきたのがまったく意識していない相手だったら、動揺せず答えることが出来たはずだ。以前、るみかと昼食を共にした際に彼女が投げかけてきた、好きな音楽や食べ物や趣味についての質問と変わらない。そのはずなのに、すんなり言葉が出てこなかった。
「い、ないけど」
 日和が戸惑いながら答えると、るみかは「よかった」と笑った。安心したようにも見える笑顔だった。それは、いざ頼りたいと思った相手に彼女がいたら困るから、といった意味の安心だったのかもしれない。
 予報は外れ、雨はいつの間にか止んでいた。1つの、それほど大きくない傘に窮屈に身体を並べることを考えたらこれでよかったはずだ。がっかりしたように感じるのは、感情に何かしらのバグが生じているに決まっている。いつもと違う彼女の顔を見たせいだ。
 ――るみか。
 店を出て、歩道橋へ向かって駆けだしていく彼女の背に呼び掛けた声は届いたのか、るみかは振り返ってビルの隙間の高い場所を指さした。
「日和くん、虹が出てる!」
「階段滑りやすくなってるから、駆け上がると危ないよ」
 言われて手すりに掴まりながらゆっくり上がり始めるるみかの後を追うと、ビルとビルの隙間を繋ぐように色彩が浮かび上がっていた。まるで懸け橋のように。湿気を含んだ温い風がるみかと日和の間を吹き抜けていくと、日和は知らず手を伸ばしていた。彼女の手は包み込んでしまえるほどのか弱さで、けれど高い体温が日和の熱の低い手の平をじんわり温めた。



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