ホームで電車を待つ。風は強く、線路を勢いよく吹き抜けていった。プリーツスカートが舞い上がってしまいそうになり左手で押さえながら、スマートフォンを右手で操作する。表示された名前に性懲りもなく動揺するのは、学生の頃から変わらない。
 高校を卒業したら、20歳になったら、社会人になったら。通り過ぎた道はわたしを成熟した大人にはしてくれなかった。10代の幼さを意識の内に飼ったまま、年齢を重ねるたび免罪符をなくしていく。ボーナスで買ったブランドの財布やヒールは一体いつになったらわたしに馴染んでくれるのか。

 彼といるときにしか足を踏み入れる機会はあまりない大衆居酒屋の騒がしさが、今日はひときわ懐かしく感じた。
 カウンターの一番奥で片手を挙げて合図を寄越す航ちゃんは、もうジョッキのビールを半分以上飲み干している。
「おつかれ〜」
「お疲れさま。航ちゃん、もう飲んでるの?」
「だってお前、遅えんだもん」
「あのね、急に呼び出されても困る。予定とかあったらどうするの?」
「え?予定ないだろ?」
「なっ、……ないけど」
 今日はたまたま、と小さく付け足すと、彼は爽やかに歯を見せて笑った。
「じゃあ、よかったわ〜。たまたまるみかに予定ない日に声掛けて」
 わざとらしい物言いに不貞腐れた顔のまま隣に座ると、航ちゃんは自分の分の新しいビールと一緒にジントニックやわたしがいつも頼むおつまみを見繕って注文してくれた。
 そういえば、と言葉のはじめに付け足した一言は、舌の上で転がり、不自然に響いた。何でもないことのようにさり気なく切り出したかったのに、きっと鋭い彼は気づいている。
「航ちゃん、転勤が決まったんだって?」
「まーな」
「どこ?関東?」
「いや、神戸」
「……神戸、かあ」
「なんだよ。お前さては寂しいな?」
 隣にサラリーマン風の男性二人組が座ると、航ちゃんは椅子ごとわたしを自分のほうへ引き寄せた。慣れた動作だった。
 Yシャツの袖口を捲っているから、手首から肘までの引き締まった筋肉が見えた。航ちゃんはわざとらしくわたしの腰を撫でた。やめて、とその手の甲をぎゅっと抓ると、あっさり手を引いた。ふざけてばかりの彼にしては、やけに物分りが良すぎた
 寂しい、と伝え損ねてしまった。ジントニックが喉元を刺激して、お酒に弱いはずがふいに酔いが醒めたような感覚に包まれる。
 黙って彼の目を見つめると、膝同士がぶつかった。びくともしない硬い太腿は、黒のスーツに包まれている。上着の苦手な彼はそれを片手で抱えたり、肩に掛けたりして、真っ白いYシャツの背中を晒している。焦がれた頼もしい背中は変わらない。彼の揺ぎ無い自信の礎になった努力を、本当はずっと傍で見ていたかった。
 航ちゃんは、女の子に対する強引さの加減をよくわかっていた。そうやっていつも女の子の影がちらつき、わたしはそれに堪えきれなくなって別れを選択したけれど、縁を切れず、呼び出されれば未だにあっさり応じてしまう。馬鹿だと自分でもよくわかっている。
 
「わたしも半分出すよ」
「いーよ、今日は奢ってやる」
 彼が声を掛ければわたし以外にも尻尾を振ってついてくるひとはいて、今日わたしに連絡が来た理由に甘い感情が潜んでいるわけでは決してない。ただ単純に面倒くさいだけなのだ。後腐れなく、勘違いもせず、欲を満たせる。わたしが本当にほんのわずかの期待もしていないと思っているのだろうか。わかっていますという顔をして、別れた後に、また会ってしまったと激しく後悔していることを、本当は知っているのではないか。その狡さを見抜けていないだけではないか。
 居酒屋を出て手を繋がれると、今日こそは断ろうという決心が揺らぐ。
 高校生の頃、繋いだ彼の手の平はもっと硬かった。すこし柔らかくなっていた。
 苦労なんて知らないって顔をして、何度もマメをつぶして硬くなった手の平は、目よりもよほど雄弁だった。受験生のときだって真剣に祈ることのなかった神様へ、彼の勝ちを祈りに行ったことを思い出す。あの幼い恋心はそれでも純粋で眩しかった。
 打算だけが横たわっているこの後の時間を、わたしはもう持ちたくはなかった。情が湧いて彼の心がこちら側へ転がってきてはくれないかと幾度も願い、翌朝何事もなかったかのように別れ、幼馴染の顔に戻る。
 月が明るく輝いていて、惑わせる。どうしようもなく痛む胸も滲む涙もすべて振り払うように手を離した。
「わたし、もう帰る」
「るみか」
「帰りたい」
 動揺ひとつ見せない彼はやはりいつも通りで、わたしはそれを悔しく感じてしまうから、こうやってずるずると流されてしまう。今日で最後だと何度も言い聞かせて何年も経ってしまった。わたしと会わなくなっても、航ちゃんは胸を痛めたりしないし、ましてや泣いたりなんてするはずがない。それどころかきっと来年あたりには神戸で出会った目の眩むような美人と結婚して、わたしはそれを年賀状で知ったりするかもしれない。今、終わらせてしまったら、やり直すことはもう出来ない。
「それ、本心?」
「そうだよ」
「るみかとやり直したいんだけど」
 真っ直ぐに見据えてくる航ちゃんは、いつも自信満々で余裕と頼りがいがあって、安心感の塊のようなひとだった。一緒にいると楽しいし、気を遣わずに済む心地良さもあった。わたしにはそんなひとは航ちゃんだけなのに、彼にとってのそういうひとはわたし以外にもたくさんいる。
 囲っていたいだけなのだ。離れるのが正解だ。形だけ引き留めてくれるが、たいして執着などしていないことをもう知っている。
「るみか、愛してる」
 冗談を言っているような雰囲気など微塵も見せず真剣な眼差しを注がれて、あの頃のわたしなら真っ赤になって浮かれていたかもしれない。
「わたしも」
 余裕など未だになく、仕事や恋愛で失敗を繰り返して落ち込んでばかりのわたしが、なけなしの余裕と強がりをかき集めた精一杯だった。
「後悔しても知らねえからな」
「こっちのセリフですけど」
 振り返らずに早足で駅までの道を歩いた。煌々と降り注ぐ光の下を、ヒールの踵を鳴らして歩く。ショーウインドウに映るわたしは背筋が伸びていた。



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