吸い込まれてしまいそうなほどの夜空は、見上げてよくよく目を凝らせばぽつぽつと光が灯っている。ひとつふたつ、と見つけていくと騒がしい駅前やビルの間からは見つけられなかったほどの目映いばかりの満天の星空が、まるで雄大に両手を広げているように輝いていた。それは命を燃やしているような色だった。
雪の混じった風が、マフラーで隠し切れない肌へ痛みを伴いぶつかってくる。寒さとは痛みなのだ。東京で暮らしていると、その鋭い痛みがいつもわたしから遠くなる。黄色に近い白っぽい明かりが零れている坂ノ下商店に辿り着き、入口の扉に手を掛けようとしたところで、がらりとそれが開く。
顔を上げるとタバコを銜えたままわたしを見下ろしている烏養がいた。
「んだよ、もう閉店時間だぞ」
そう言いながらもわたしが店内に入りやすいように進路を空けた。そうして彼は扉の外にタバコの煙を長く吐き出して、しばらく空を見上げていた。
わたしがさっき見ていたものとそれは同じ色で燃えているのだろうか。
テーブル席の近くに置かれている年代物のストーブが赤く熱を発していて、その傍で蹲っているとわたしの身体から切り離されていた手足が次第にぽかぽかと温まり、確かな感覚の元に戻ってきた。
「おら」
「……ブラックは苦手」
「ガキかよ」
呆れた様子で返事をするわりに、律儀にミルクティーに変えてくれる彼は、わたしのよく知っている烏養だった。
頭の奥の奥にしまいこんで固く蓋をしたつもりだった思い出が、急に胸の中に流れ込んでくる気配がして、ありがとうの言葉も掠れてしまった。
「明日の朝、東京に戻るの」
「おー、そうかよ」
「これ、渡し損ねてたお土産」
黄色い紙袋を渡すと、烏養は「何の捻りもねェな」と屈託なく笑った。高校のときから変わらない顔をして、このひとは笑うのだな、と思った。羨ましかった。
たぶん彼はわたしが思っている何倍も細やかなのだと思う。それを表に出さずにいることは、強さなのだと気付いた。
すべてにおいて不器用でまっすぐだったあの頃は、まぶしい分だけ気恥ずかしい。
体育館の屋根、グラウンドの砂、校舎の真ん中に居座っている大きな時計、自転車置き場の窮屈さ、机の落書き、蛍光灯の目映い白、上履きに馴染んだ踵。
それらの輪郭はどんどん遠ざかっていき、すべてが夢の中の出来事だったのだと錯覚する。
制服を着て、席替えのくじに緊張と期待を乗せ、マラソン大会が嫌いで、隣のクラスに好きな男の子がいた。目が合うだけで飛び上がるほど嬉しくて、恋はいまよりもずっと輝いて見えた。それは自分には遠かったからだった。
近付けば近付くほど傷は深くなり、輝きは淀み、負の感情ばかりが降り積もる。
それは過去に流れていくほど美しくまた夢のように輝く。思い出の中にしかその輝きは見出せない。
この手の中にあったとき、辛くて手放してしまいたいほどの痛みを伴っていたことも忘れて、無邪気に輝く光はまやかしに見える。
地元を出ればわたしは変われると思っていた。何も変わらない。子どものまま、重ねる年齢に言い訳が利かなくなっていく。
「東京はお前に合ってたんだろーな」
短かった烏養の髪は伸びて、わたしの髪は短くなった。
「帰って来たい……って言ったらどうする?」
レジ前の椅子に座ったままタバコをふかしていた烏養のほうを見ることができずに吐き出した言葉は、甘い応えを期待して投げかけたのだと烏養もわかっているはずだ。
「勝手にしろよ。お前が決めることだろ?」
「じゃあ、帰らない」
「あー、そうかよ」
断ち切るように膝に力をいれて立ち上がると、ミルクティーをコートのポケットに突っ込んだ。
「じゃあね、それ限定味だからありがたく食べてよね」
「帰って来いよ」
コートの右ポケットが温かくなる。烏養の視線がまっすぐ過ぎて、生じた後ろめたさは、ぜんぶ東京の影だった。期待していた。烏養が欲しい言葉をくれることを。自分は誰にも必要とされず、選ばれることなどないのだと、泣いてばかりの日々はもう過ぎ去ったわたしの過去、鈍い光の中へ埋もれたのだと思っていたはずだ。
「優しくされると期待する」
「すりゃあいいだろーが」
一歩、二歩後ずさるのは、覚悟が足りていない証拠だ。いつも逃げ腰で、傷つくことを恐れている臆病者だとわかっている。
烏養の手が腕を掴んでいた。「冗談ばっかり」笑って受け流そうとするわたしを、叱るような真剣な瞳に、あの頃の真っ直ぐな輝きを見た。