男の硬い身体の上に上半身を預け、呼吸に合わせて胸が上下するのを眺めていると、夜の淵で拭いきれずに抱えていた孤独が姿を消していた。
 毛布に包まっていなくとも、男の高い体温が心地よく深い眠りへと誘う。
 みずうみが、美しい水を湛えて柔らかな風に揺れている。鳥が晴れ渡った空を飛び去っていく影を水面に映して、底で小さな秘密を飼っている。清らかな川のせせらぎに乗って、歌声が聞こえてくる。聴いた覚えのある歌。何という歌だったか。
  
 男がブランコを揺らすたびに、キイキイと悲しげな音が小さく響く。陽の沈んだ公園はひっそりとしていて、亡霊のようだった。
 男の口ずさむ歌は、どこかで聴いた覚えのあるものであったのに、何という歌だったのかどうしても思い出せない。サビの部分を聴いたら、思い出すことができるかもしれない。
 公園の横を通り過ぎようとしたるみかの歩みが自然と遅くなると、男は歌うことをやめてしまった。ふいに、彼女が視線をそちらへ向けると、男は深く被ったフードの下で煙草をふかしていた。街灯が白い煙のゆるやかな流れを照らし、消えていくまでを明瞭に映した。

「俺の歌は高く付くぞ?」
「歌詞がでたらめだったわ」
「知ってんのか?ずいぶん古い歌だぜ」

 乾いた風が強く吹き付けて、男のフードを攫っていくと、夜の色を纏った髪が揺れた。
 男は小さな何かを地面に放った。俯いて小さく笑うと、がしゃんと音を立ててブランコから立ち上がる。
慣れた様子で煙草を吸っている様子だったが、るみかの前に立った男の顔立ちは思いのほか幼かった。年下かもしれない。そう思った瞬間、彼女の警戒心は緩んでしまった。

 男は飼い慣らせない猫のようだった。気まぐれに擦り寄ってきては、呆気なく姿を消す。
 るみかのシングルベッドが二人分の重さを乗せるとき、スプリングが微かに音を立てた。それは寂しげな音では決してなかった。
 
「だいす?」
「有栖川帝統だ」
「それって本名?」
「本名以外の名前なんてねーよ」

 バスタブの縁に頭を預けて、目を閉じる。帝統の長い指が、慈しむように髪を丁寧に洗ってくれるたびに、さざなみのように眠気がゆらゆらと襲ってくる。
 歌が意識の深いところへ向かって、聞こえてきた。低く喉を震わせて、静かに穏やかに、狂おしい愛を叫んでいる。
 ぬるま湯が髪をくるんだ泡を洗い流していく。サビに入る直前に音が消えて、るみかが開きかけた唇は、熱を受け止めていた。男の唇は、るみかよりも薄いようであったのに、触れ合うと、丸くやわらかかった。

「……はじめて」

 浴室だと特別な言葉のように響く。

「わたし、いまはじめてキスしたの」
「あ?俺とか?」
「誰かと。生まれて初めて」
「そりゃあラッキーだったな」

 俺はキスが巧い。
るみかは比べる相手を持たなかったが、その言葉が真実だと素直に信じることができるほど、気持ち良く溺れた。
 他人の舌が口の中に差し入れられるなど、考えただけでぞっとすると思っていたはずなのに。るみかは欲しがって、帝統の白いロングTシャツが濡れてしまうことにすら配慮できずに、手を伸ばした。自然と腕は帝統の首に回っていた。
 バスタブの中で白い泡が夢の続きのような白々しさで揺れている。太陽が高く昇っている時刻に湯船に浸かることは、とても明るい気分にさせてくれるものだった。閉じた瞼の上に降り積もる光の清潔さに、温かさに、馴染んでしまいたかった。

 カラカラ、とまわる洗濯機の中で音を立てている正体は、小さな、何の変哲も無いサイコロだった。るみかの掌の上で、それは唯一の赤を差し出している。
 帝統の指の間に挟まれている四つのサイコロに、るみかの持っている一つを加えて、彼は無造作にベッドの上へとその五つを同時に放った。

「”夜のさいころ”って知ってるか?」
「川端康成でしょう?学生の頃に読んだわ」

 帝統は笑って、シーツの上を転がったサイコロの方へ顎で視線を促すと、るみかは驚いて彼を見上げた。るみかが、帝統と散らすことの叶わなかった赤だ。

 ――何か細工でもしたの?
 野暮な質問は持ち出さずに、るみかは男の唇の上へ、みずうみを湛えた。



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -