暗黒に呑まれまいと抵抗するかのような引っ掻き傷。もしくは嘲笑する男たちの歪んだ口元の形。もしくは古来より人々を狂わせる妖しい夢のつづき。
 沈む躰は、奇妙な浮遊感を感じていた。投げ出した足は熱を持ち、思い通りに動いてはくれない。
 がさがさと音を立てて飛び出してきた生き物は、闇に目が慣れてきたとはいえ判別できず、とはいえ何も危害を加えることなく通り過ぎていったために、その背を視線は追わなかった。
 しかし、再び視線を月に向けたとき、遮る影は大きく、夜は更に深い闇を野放しにして、わたしに覆い被さってくる。
 ――熊だ。
 鋭い爪も牙もないが、見下ろしている瞳は肉食獣のそれに違いない。
 死んだ振りをするのは正しいのか間違っているのか、何かの媒体を通して正解を聞いた覚えがあったが、どちらであったか忘れてしまった。
 足は虫に噛まれたのか、今や元の倍ほどに膨れ上がってしまい、ぴくりとも動いてはくれない。そのくせ恐怖に堪えきれず、躰は小刻みに震えている。
 神よ、と祈り、自身の神が誰であったのかすら、覚えていないのであった。

「おい、女。生きているのか?」

 否、熊ではなかったようだ。

 唇に冷やりと触れて溢れてくる水分は、霧に包まれたように不明瞭だった視界を一気に鮮明に開かせてしまった。
 上唇と下唇の間をこじ開けてしまったのは、無骨な男の手である。
堪らず咳き込み、仰向けていた身体を横に転がせば、背中をまるで赤子をあやすかのように大きな手が撫でた。
 喉元を過ぎていく液体は無味無臭で正体は判別出来なかったが、飲み干すことに躊躇はなかった。
このまま永遠に目蓋が開かなくても別に構わない。無気力に躰を侵食されて、何もかもがわたしの手の上から零れ落ちていく。
 沈んで土へ還りたいと願うことすら罪だと咎めるのであれば、忘却の無礼を神へと詫びる必要はないだろう。

 見た目さえ気にしなければ蛙は美味であった。
食べてみようなどと思ったことはないが、男はかなりの変わり者で、披露される目の前のすべてが新鮮だった。
火の熾し方やナイフの扱い方、食用の野草やキノコを見分ける目も確かである。
 生活にさほど不便を感じてはいないようであるが、やけにストイックすぎる彼の暮らしぶりに、圧倒的に足りないように思えたのは娯楽であった。

「性欲はどう発散させているんですか?」
「年頃の娘はもう少し恥じらいをもつべきだな」

 まるでかなり年長者のような台詞は、見た目から推測する年齢が正しければわたしとそう変わらないと感じていたために、ひどく違和感を覚えた。
異様なほどの落ち着きは、確かに年若いもののそれではなかったが。

「女を買っているの?」
「買ったことはない。買おうとしたこともないな」

 逞しい四肢から発せられる雄のにおいに、吸い寄せられる女は少なくないはずだ。
買う必要もない、と街中で出逢っていれば疑問に思うはずもなかったが、こんな木々の生い茂る深い森の中で女がふらふらと歩いているはずもない。その例に自分は漏れてしまったわけだが。

「わたしを買ってみませんか?」
「俗世を離れて暮らしていても、政治や情勢に無知なわけではない。そんな時代はもう終わったはずだ」
「……あなたの傍において欲しいのです。でも、わたしにはここで生活するための知恵も体力もない。足手まといになるだけだとわかっておりますが、お渡し出来るお金も品もありません。差し出せるものがほかにない」
「女の気に入る生活かどうかはわからないが、お前の好きにするといい。対価を支払えと言った覚えもない」

 男のまっすぐな瞳を好ましく思った。
月の光などに狂わされない強靭な肉体と精神が、彼の魂に宿っているのだと信じるのは容易いことであった。
 清涼な川の透明な水の中に浸すと、彼の迷彩は水底の森のようであった。
生き物たちの息遣いが闇の中に混ざり合う、夜の森。
 調理の際に吹き上がった血飛沫は、黒く繊維に染み込み、どれだけ丹念に擦っても綺麗に落とすことができない。
しばらく格闘していると、小石のぶつかり合う音がして、左足から血を滴らせた彼がすぐ傍に立っていた。

「あ、……あの、血、が……」
「大したことはない。だが、止血はすべきだろうな」

 救急箱の中の、包帯もガーゼもいつの間にか数が減っている。知らないところで、彼はたくさん傷を負っていた。
森が下した罰ではないようだった。
 傷口にガーゼを被せるとき、彼はわたしをまっすぐ見ていた。
鮮やかな血の色は、動脈からの出血を疑わせて、手が震えた。

「病院に行かないと……」
「必要ない。この程度の傷なら慣れている」

 試されているのかもしれない。唇を噛み締めて、ガーゼの上から傷口を強く押し、圧迫した。
彼は微動だにせず、声ひとつ上げることはなかった。

 煌々と月が輝いている。今宵の光は一層強く、深く青い夜空は清廉だった。
 男と躰を交わしているとき、精神は自然の中に在る本能を貪る動物と化していた。
わたしは対価の意味を付さない繋がりを彼に求めてしまった。焦がれた躰をいい加減持て余していたのだ。
 惚れた男の前では、女はいつだって無力だった。対価などと傲慢な考えは萎縮し、躰を開く喜びに打ち震えていた。

「小官の非を詫びよう。お前を疑っていた」

 腕の中で見たドッグタグはファッションとして身につけているものではなく、しっかりと彼の情報が刻印されていた。りお・M・ぶすじま。

「毒島メイソン理鶯だ」

 名前が知れた途端、彼をぐっと近くに感じた。
名前など不都合を解消するだけのものだと思っていたはずだ。理鶯さん、と声に出すと、口元に一陣の風が吹いた。わたしは震えた。
 清澄な水が流れ込んでくるたび、わたしの心臓はひどく痛んだ。
薄汚い過去が背後から覆い被さってくる感覚に、彼の肌は熱く、わたしを明るいところへと引っ張ってしまう。

 彼が常に肌身離さず持ち歩いている、彼が求める場所へと繋がる唯一の誇りを、わたしは狙って送り込まれた雌猫だと思われていた。
それにしては色香も慣れも到底足りない。だが、それが油断させる手なのだと、ずっと疑っていたことを彼は語り、謝罪した。
 そう思っていたなら、最初から助けることも傍に置くこともしなければ良かったのに。彼は少し笑って、珍しく軽口を叩いた。「ひ弱な小動物が一匹迷い込んだところで、問題ないと判断した」

 彼はときどきわたしの前から姿を消していた。
 帰ってきた際に感じていた血生臭さは、気のせいではなかった。自分が狙われていることを気取らせることすらしなかった。
彼は初めて会ったときの無骨な印象からは予想できないほど、スマートなフェミニストだった。

「わたしが信頼できると錯覚されたのは、処女だったからですか?それとも情でも移ったのかしら?」

 滲んだ血の跡は彼の傷からか、それとも自身の足の間からの出血なのか判断がつかなかった。

「あなたの持っているマイクは、扱いがとても難しいの。国家権力を持ってしても、強制的に没収することが、法がそこまで整っていない今はまだ出来ない。こんな辺鄙なところで暮らすなんて、中王区の監視下から逃れるためなのかと思っていたけれど、どうやら単に頭のイカれた猿だっただけのようね。でも、あなたの方から接触してくれたのはラッキーだった」
「どうするつもりだ?」
「どうもしないわ。わたしはあなたがどれだけ危険人物かどうかを見極めるためにここへ来ただけだもの。わたしはあなたに危害を加えられてはいない。マイクを没収することも出来ない。本当に割に合わない、無駄な仕事」

 その瞳に憎しみの炎でも灯してくれたら。
わたしは、気を緩めれば傾倒してしまう弱い魂を飼い慣らせず、みすぼらしい虚勢を無理やり引っ張り出して飾った。
 男はやはり悔しいほどに落ち着いていて、ますますわたしを惨めにさせる。

「るみか」
「それはわたしの本当の名前じゃないの」
「記憶が戻ってよかったな」

 知らず唇を噛んでいた。名を名乗ってしまった己の浅はかさにではない。



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